「あたしは、あのお墓に入るの?」(次女)
ひさしぶりに家族みんなでドライブして、墓参りに行き、ぼくが育った山にいった。今回は息子もマルもいる。桜は満開からやや過ぎたくらい。焼きまんじゅうにもいき、祖父や母のことを店主のおじさんと話す。娘が三代目をやるらしい。創業70年。年中無休。初代は祖父と仲良く、お寺の報恩講では店を出してくれた。それをたらふく食べるのが少年の頃のぼくの楽しみだった。
「形をもっときれいにしたらという話もあるけど、ずっと昔から食べてくれている人が『変わったな』となったらだめだ。最近は『ソウル・フード』といわれてるようになった」
味も形も変えずに貫くのだという。価格も安価なまま。変えなくとも愛されて人気がつづく。規模も自分たちがコントロールできる範囲。一つの商売の理想形を見る気がする。息子も長女もとなりで店主とぼくの会話を聞いている。「半分こして食べな」と焼き上がるまでの間におまけで1つくれる。
やがて、次女もマルをつれてやってくる。「3人いたのか。ほいじゃ、ひとつ」と店主がまたくれる。思い出の風景、思い出の味を子どもたちに受け継ぐ大切さの話。この地に育っていなくても、記憶にとどめておいて、墓参りをしながら山にきて、饅頭を食べる。つらくなったときとか、それをすれば気が楽になることもあるだろう。先祖は偉大なものだ。
店主は母と同級生で、母の名前を覚えてくれていた。
「おれがこしあんが好きなのは、この饅頭のせいかな」と食べながら息子がつぶやく。
「わたし、あのおじさん大好き」と長女。元気な声で、ハキハキしゃべって、やさしい。家族で15個をたいらげる。
山を歩く。マルもがんばって崖を登っている。夏日の青空。遠くの山と海が綺麗にみえる。帰り道、先にいったマルと息子と長女と妻。笹の棒をおいてきたととりにいって、きぼりになった次女。桜の坂道をくだりながら、この山に昔、ぼくの祖母と祖父が住んでいて、お寺があったこと。二人はあのお墓に入っていることを説明する。
「パパも死んだらあのお墓に入るから。入れてね」
そしたら上の質問。「私も入りたい」まだまだ先のこと。
相撲場で息子から挑まれる。体重が違うから、まだまだ楽勝であった。長女が嬉々として行事役をする。桜が咲いていても、相変わらずこの山は人気がまばらである。多くのひとにとっては「裏山」なのだろう。それがいい。マルもときどき首輪を外して走らせることができるし、やはりここは我が家の庭のような存在だから。
草場の影から祖父母も喜んでいるだろう。