とむらい

夏にカナヘビやらクワガタやらカブトやらバッタやら、いろいろ飼っていた虫カゴが4つくらいあるのだけど、息子が片付けた。残念ながら息絶えた亡骸もあるので、外にお墓をつくって埋める。

ひととおり終えて帰ってきた息子の言葉。

「それぞれ埋めて、棒をたてておいたわ。どこに埋めたかわかるし。あと、昆虫ゼリーも一緒に埋めた。そしたら、天国にいっても食べられるやろ。」

粋なことをする。優しいじゃないか。さすが僧侶のひ孫。

これまでも虫だけではなく金魚やらいろいろな別れがあって、たくさん手を合わせてきた。生命に対する畏敬の念ははきちんと教えてあげなくてはいけない。遠くない将来、人工知能が知的な分野の大部分を支配するようになる。人工知能から人間が馬鹿にされることも出てくるだろう。人間であることの誇りが薄らぐかもしれない。そんなとき、人工知能を敬い、自分たちも含めて命ある存在を軽んじてみるようになるか、あるいはその逆か。どちらに転ぶかで人類の未来は大きく変わる気がする。

ぼくは後者に転んでほしい。生命の尊さを忘れたくはない。太陽の日を浴びたら気持ちがよく、朝の鳥の声を聞いたら安らぎ、旬なものをつかった料理は美味しいと感じる。自分たちが自然界と繋がった生命体であるという実感は、日々の生活を豊かにする上で大きな拠り所になっているからだ。やがて訪れる死を前提としながら、集団で生活し、世代を超えて種を繋いでいこうとする。時代は変われど動物である以上その宿命からは逃れられないし、それでいい。サイボーグになって永遠の命をもらおうとも思わない。

「生きるって何か」は子どもにとっても常に身近なテーマであってほしい。デジタルチルドレンにはなってほしくない。最近話題になっている今後の日本の教育って科学や技術一辺倒で文系の研究は後回し、みたいな方針は近視眼的な危険なものに思えて、理解できない。ぼく自身も一応理系の身だし、息子もそっちに興味がありそうだ。科学や技術が発展するのは大いに結構だと思う。だけど、だからこそ、同時に哲学や宗教や芸術といった学問が必要だとおもう。ラッセル=アインシュタイン宣言を持ち出す間でもなく、それらがないと、科学の成果の使いみちが判断できなくなる。最先端の科学者にこそ、時の権力者にこそ、哲学を分かっていてほしい。文系学問の成果って、理系と違って息がとてつもなく長い。例えば老子アリストテレスのように、何千年も前の言葉でも、今でもなお輝きを失わず、「いいな」って思える。人間の変わってない部分に目を向けるているから。それってすばらしいこと。科学が新しいこと、変えることを追求する一方で、文系学問も世界のバランスをとるために重要なのだ。

そんなことを最近考えていから、息子の先の言葉は嬉しかった。父ちゃんが死んだら、棺桶には寿司を入れてくれ。