「わたし、算数嫌い。国語は好き」(長女)

3年、4年と新人の担任が担当して、特に4年がひどかった。日本の公立の小学校の先生の水準はここまで下がったのかと悲しくなった。割り算を間違える。それを生徒から指摘される。さらに、保護者とのごくごく基本的なコミュニケーションさえもできない。やる気もないし、仕事する気がないのだろう。

結果、クラスの授業は遅れ、本人も楽しくなく、苦手意識しか持たなくなってしまった。教育で、勉強が嫌いになる。本末転倒。気の毒である。今年はベテランの先生で、やたらと厳しいらしくそれはそれで「やらなきゃいけない」が強すぎる集団的な勉強から、投げたくなっている。拒絶感が先にきている。楽しみを教えてくれる先生はいないものか。

「パパって、ガリ勉?」と夕食のとき。「知らなかったの?」とニヤケながら妻。やや軽蔑の空気がある。長女にとって、勉強好きなことが信じられないというかんじ。

「勉強というか、学問の面白さ知ってるつもりだよ。この世界の面白さを知れるから、人生楽しめる。」

長女は、本をひたすら読むようになった。それは救いだ。かつての息子のようだ。孤城のなんとかという本が面白いからぼくにも読めと勧めてくる。ときどき、今読んでる本を音読もしてくれる。

本を読む姿は美しいと感じる。馬に乗る姿もまた、美しい。それはなんでだろう。

他方、スマホを見てる姿はそうは見えない。むしろ目を背けたくなる。車を運転する姿も、美しくはない。この感覚は、なぜなのだろう。どちらも心や身体を預け、奪われているのは同じ、だけど後者には、表面的で消費的で退廃的な感じがある。スティーブ・ジョブスが現れるより前に人生を終えたかった気もする。恩恵もたくさん得ているけど、人生が細切れで、せわしなくなる一方だ。と、スマホでこれを書いている。

タッチスクリーンのように感覚を上滑りさせることなく、自分の身体で世界の深さを広さを感じて、長く夢中になれることをみつけて、何かを生むことにつなげてほしい。

「分かったような気になる、分かりやすいものは、どこか危険だ」

こないだもらった言葉。