優しさ

「すっごく頭いいけど、すっごくいじわるな人と、すっごく頭わるいけど、すっごく優しい人だったら、すっごく頭わるいけど、すっごく優しい人がいい」(次女)

寝るときに。自分で選択肢をつくって選んでいた。ぼくもそれは正しいと思う。補えるのは頭の良さの方である。優しさは補えない。

クラスの男の子でひつこく毎日ちょっかいを出してくるやつがいる。いかにも幼い子どものちょっかいだが、毎日となるとうっとうしい。いつも大丈夫だったか聞く。最近は気にしなくなって「大丈夫」と返ってくるようになった。

優しい子になるには、たくさん優しさに触れて、与えられていなくてはならないと思う。「優しさ貯金」があるから、厳しさにも耐えることができるし、他者にも優しくできる。そして、本物の優しさに触れていないと、本物と偽物の見分けがつかなくなってしまう。味音痴と同じだ。一方で、傷つくことでもまた、人を優しくする。悲しみを知るから。人生と向き合って、人間を深くする。それは、希望でもある。でも、傷つくだけでは聖人でもない限り、立っていられない。自ら進んで傷つくことも、普通はできない。厳しくすることもときには必要だろう。だけど、幼少期に耐えるべきはまず、優しさがきっと先だ。優しさが心の栄養になり、心が育つ。

学ぶこと、学問すること、そしてそれが本物であることも大事である(「勉強」ではない)。でも、同じくらい、それ以上に、優しさにふれることもまた、大事だ。

息子はいま、厳しい部活にいる。でも耐えてやれているのは、そういうことなのだとおもう。部活の帰り、招かれたぼくの親友の家で小さな子の相手をして遊んであげる。そういうときの息子は本当に優しい。その子も息子を待ち、慕ってくれる。これは彼が誇っていい、すばらしいところだ。