夕陽

「何してるの?」(息子)

19時ころ、外出先から戻り、西側のドアから息子と長女と外食にいくぞと声をかける。息子と長女が家から出てくる。そのときのぼくの表情をみて、上の質問。家の西側をみながら腕組みをして、憮然としてたのが気になったのだろう。ブラインドが閉まっている。さっきの電話で、ブラインドを開けて夕陽を家に入れるようにいうべきだったと後悔していた。日はすでに沈み、マジックアワーになっている。「はぁん」と息子は興味も気もない返事。「またいってるわ」くらいにしか思ってないのだろう。

ぼくは、やっぱり、日々夕陽をみながら、この美しい光を家に満たしながら、この家で暮らしていきたい。この家のもっとも大事にしたいところ。遠くに夕陽が海に沈む景色を臨む丘の上、不便だといわれるここを、終の住処に選んだか。大げさだけど、人生の豊かさは夕陽を何回見るか、だと思える。息子はカンボジアアンコールワットでみた夕陽を覚えているだろうか。

これは家訓のようなもの。

あと何回、この素晴らしい時間を味わえるのだろう。逃すのは、実に惜しい。家族には、全く伝わっていない。夕陽なんかより、スマホの光なのである。人生に何が大事かはひとそれぞれ。お互いほっとけという話でもある。長女はマルの散歩をたくさんしながら見たといってくれたのが救い。父もやはり、夕陽が好きだと、最近いっていた。

夕陽の凄さは、技術がどんなに進化しようとも、写真やビデオでは捉え切れないところにあるのではないか。太古からある、生命の原理そのもの。

西方浄土。夕陽の美しさを知れば、死も恐怖の対象ではなくなる。