熱でうなされた。いろんな頭の中に断片的に沈澱していた思考が浮き上がってきて、独り言をずっといっていた。喘息で呼吸困難。息をすることだけに精力を使い、寝れもしない。単純計算で12時間で1万5千回の呼吸をするために、たた息を吸い込むこと苦しみながらひたすら繰り返す苦行。生きることに必死でつらい時間。数度の熱のことで倒れるのだから弱い精神だ。熱出てもメダルを取るオリンピック選手もいるとうのに。

家族が連日深夜までみているテレビのバラエティの音を気が狂いそうなくらい、うるさく、うっとうしく感じた。こっちは押し付けがましい笑いに付き合える気分でも体調でもない。来冬ははなれに隔離できるように暖房設備を買おう。

熱が出た身体だと、世界は普段と違う見え方をする。どうでもいいことは、どうでもいいこととして浮き彫りになる。断片思考たちも無駄ではなく、普段ひっかかるけど忙殺されて処理されず、無視してきたかけらたちだ。何が自分にとって必要かを見定めるいいきっかけになった。

結局、子どもたちが元気に大きくなって、社会とうまくつきあえるように育ってくれればそれでいい、ということに尽きる。やりたいことも特にないし、思い残すことはない。生を謳歌できない自分の性根がわるい。ダラダラ過ごして衰えていくだけだろうし、もはやいつ死んでもいい気がする。そう思えるのは、恵まれたことでもあろう。

とはいえ、父がまだ生きてるからその順序は守りたい。遺産相続も考えたり。息子がもし、将来ぼくの姓を継ぐことが足枷になるときが来たら、そんなもの捨ててしまって結構、と言おうと決めたり。祖母は悲しむだろうけど、母はそれ以上に苦しんだ。この姓はぼくで途絶えてしまってもいいのである。息子は自由にすればよい。でも彼は姓がもし変わっても、お墓参りは続けてくれそうな気もする。それはそれでいい。お墓参りは義務ではない。先祖とのつながりに思いをはせて、自分の心の平安をえるためにある。スウェーデンは結婚で、両親とちらの姓を名乗るのはもちろん、姓を新しくつくってもいいそうだ。さすがである。日本の制度が変わるのも時間の問題だろう。

次女が寝る前に「つらいときは声かけてね。無理しないでね。気を使わなくていいから起こしてね」と何度も声をかけてくれる。いろいろものを運んでくれて、甲斐甲斐しくサポートしてくれる。天使である。長女も、普段ぼくがやっているメルの掃除を寒い中、すべてちゃんとやってくれた。「楽しかった」そうだ。頼りになる。もう少し、この子たちの保護者としての役割を果たさなくてはいけない。