学習性無気力

心理学で「学習性無気力」という言葉があるらしい。なるほど。ぼくがこっちに帰って公私共に学んだことかもしれない。そうなるのも、よくわかる。公務員の仕事はなおさら。税金で生活させてもらう身で、やりがいなど求めてはいけない。奉仕あるのみなのだから仕方ない。無我であるべきた。「無」はとても憧れる、魅惑的な言葉だ。

でも気力はどうあるべきなのだろう。無気力はいままでなったことがなかったし、それに甘んじるのは苦しくて、もがいてしまう。よりよくなるように、悔いがないように、しなくてもいいことをしようとする。

でも歳もとったし、最近いっそ無気力でいいじゃないか、そうなれたらどんなに楽か、ぼんやり感じていた。がんばって何の意味があったのか。

なんと無気力は、無意識で学習しているのだそうだ。やってもやっても、世界は変わらない環境にいつづけると、動物は何もしなくなるし、何もしないことを学ぶことで、環境が変わっても何もしようとしない。なるほど。

それでも、まだ、何もしないでいいじゃないかと自分を納得させることに戸惑い、苦しんでいる。やはりお金をもらっている以上、そうあるべきではない。辛抱も大事だ。しかし振り回され、耐えるだけが褒められるの仕事だとは、やはり信じたくはない。

かといって、あと23年間この無気力に誘われ続けると、ぼくはどうなるのだろうか。家族を養うためだし、自分は所詮その程度の器だったわけだと自分で自分を納得させられるだろうか。寿命を真っ当したと思えるだろうか。その後、働きもせず、納得して老後を満喫できるのだろうか。

一方、子育ては仕事ではないから、親が子から離れるべき時期がきたら、その方がいいのだろう。思春期以降の理想は放置放任である。子は大きくなれば、親が言うことなど聞かない。ほぼすべてが余計なお世話である。息子の態度をみたら明らかだし、ぼく自身もかつてそうだったではないか。無気力をとっとと親が学習すべきなのである。本人が自ら決めて行動して失敗して学ぶ、社会に育てていただくのが一番だ。法に触れず、一線を超えて世間にご迷惑かけない範囲で。

がんばることはそれでも、結果はでなくても、意味はあるはずである。必ず周りはみているし、それが信頼関係の礎だから。がんばってない人を、ぼくは信頼しないように、信頼もされない。がんばらないことに決心できない理由は、結局そこなのだ。人生ひとりでは生きられない。信頼して、されて、生きていきたい。それがない人生こそ、退屈で、無な人生だ。次のがんばる環境を、考えねばなるまい。まだまだ頼りにしてくれる、かわいい娘たちとの時間はキープしつつ。