会食

「会食は絶対にしない。気を使うし、1番の毒。」日経新聞にあった、安藤先生の言葉。しみじみ、やはりそうなのだ。

この6年ほどで職場の飲み会は数回しかしてない。もう誘われなくなった。ありがたい。

街中で飲むのは基本的に東京から友人が来たときと、親友と恩師とだけ。その後、家まで2時間半、歩いて帰ってもいいと思える間柄に限っている。家飲みも、東京から訪ねてきてくれるか、家族ぐるみだけ。

これからも飲み会は、勝手知ったる気のおけない間柄でしかしないようにしたい。無気力者が会食しても意味はないし、最近気づいたが、知らない人ほどぼくは気を遣ってしまい、何も味わえてない。お金の無駄なのだ。吉野家鉄板焼きも変わらない。

気を使わないでおこうとおもっても、結局使ってしまい、早くこの時間が過ぎてほしいと酒を煽るばかり。盛り上がればうれしいけど「なんでこんながんばらなきゃなのかな」と疑問に思い、他方いまいちなら、それはそれで翌日は「あのときはああいえばよかった」とずっと悔やんでいる。はたからみたら楽しそうにみえるように、なんとか取り繕っている。以前はなんのその、世界はラブアンドピースだし、人との繋がりは大事と信じて有意義であった。それで給料もらっていたこともあった。そこで築いた関係が、いま遠方から訪ねてくれるものに育ち、現在を潤わせてくれている。それもよくわかっている。

 

でも今は、しんどい。人脈広げようと会食ばかりしている同年代が痛くみえてしまう。新しい関係を築くのに、会食のコストは時間も空間も体力もかかりすぎることに気づいた。会食でアイスブレイクはできても、信頼は築けない。信頼関係は一緒に仕事をしてはじめて築ける。会食で気を使うのは、砂上の楼閣のような、もともと無理筋の信頼関係を、なんとか取り繕うとしてるからで、ゆえに、疲弊する。

そして、心から笑えることに、正直であるべき年齢なのだ。愛想笑いしたり、自分の嘘をつくのが、害となり心を蝕むのがわかるようになってしまったのだ。

 

人生の時間は限られている。その時間あれば、本を読もう。そしてそれをネタに、心許せる間柄で語るのだ。

 

先生には学生時代、ランチにも夕食にも、たびたび連れてっていただいた。二人きりの夕食もたびたびあった。

「サラダ食わないかんで、サラダ。」

「大きいんやから、沢山食べろ。」

「食べるの遅いやつは、仕事できへんで。」「デザインは、ついでや。任せられるまでの方が大事や。」

そして「常に考えろ。もっと考えなあかんで。まず相手の話を10聞いて、そこから自分の意見を1言え。」

 

社会で信頼関係を築くとはどういうことか、一生、どこでも通用する社会人としての振る舞いを躾けていただいた。厳しい、でも優しい。ご自身に一番厳しくされているから、自分も頑張らなくては、と思えた。

学生にもかかわらず、いろいろな機会を与えてくださり、世界の広さを、仕事のやりがいを体感した。ぼくがこれまでの人生でした大きなプレゼンは、先生から任せられた学生のときだし、今後超えることも、もはやない。親に話をしたら、喜んでくれた。数少ない親孝行のひとつ。こんなにスケールの、器の大きい人間がいるのかと、感激した。この方についていこうと思った。偉大なスーパースターであり、人生の師匠。宝物の時間であった。

「おまえは、一生懸命やれ。なんかあっても、そんときは責任はおれがとってやるから。親分の仕事は先頭に立って、最後は責任とること。おまえの仕事は、ついてきて、がむしゃらにやること。」働きはじめて、抱えきれないくらい大きな仕事を担当して悩んでいたとき、呼び出され、こうおっしゃった。忘れもしない。