八の字

「今日、学校楽しかった」(長女)

「パパとんとんして」と久しぶりに長女から言われ、寝かしつけ。日頃は帰ったらもう寝てるけど、まだしてほしいこともあるのだな。たまには早く帰るようにしたい。

学校の昼休み、体育館のプレイルームに友だちと二人で行ったけど、だれもいないから同学年の男子に「ひま?」と声をかける。むこうも「ひま」というので、一緒に長縄の八の字跳びをひたすらしたらしい。夢中でやって、休み時間が終わるチャイムがなるまでやって、その後ダッシュで教室に戻った。

パパが小6のとき、体育の時間で同じ八の字跳びをクラスでやったら、だれもひっかからず、連続1682回とかそのくらいいった。授業の時間が終わっても続け、たしか次の授業にも食い込んで、延々とやった。どの児童も集中して、神がかっていた。

担任の先生がそのあと、どこかの団体に記録を伝えたら、後日クラスのみんなの分のメダルが届いた。卒業式の掛け声でも、クラスのオリジナルのワンフレーズは「みんなで跳んだ」「1682回」というものになった。たしか、ぼくの提案だったとおもう。そして「みんなで跳んだ」は卒業式のぼくが叫ぶフレーズだった。

長女のおかげで、この記憶が蘇る。

ぼくの思い出話を驚きながら聞き、

「そんなこと、うちのクラスではむり。絶対引っかかる子がいる。『いまなんで入らない?!』って。ぜんぜん入らない」

はがゆそうだ。たしかに、そういう子もいるだろう。パパのクラスでも苦手な子がいたけど、あの日は特別な何かがあった。

「好きな科目は、体育。みんなそうだよねやっぱり。理科っていう子いた。オシベメシベとか、回路とか、パパいまつかう?意味あるの?」

学校で習うことに意味を感じなくなってきているようだ。だれしも通る道なのだろう。

人類がいままで考えたり研究してきたエッセンス、世界の成り立ちや歴史をてっとら早く、いろんな視点から教えてもらっている。個々は、それぞれの専門家がそれだけのために人生かけている研究の、ほんの一部。いまの児童の毎日と関係ないのがほとんどだろう。個々のことを使うかというと、大きくなってそのまま使うことはない。

だけど、大人になっておもうのは「そんなこともあるのか」とか「そんな考え方もあるのか」という「引き出し」をもっておかないと、他の浅薄な考えに流されたり、時にお金をだましとられたり、トラブルになったときに対処方法がわからなくなったりするわけで、さらに、この世界の楽しみ方も分からないのである。つまり、巨人の肩に乗って、この世界を、あなたの人生をより楽しむためのヒントを、学校は教えてくれている。だから学ぶことそのものも、本来はとても面白いもののはずなのだけど。

このことに気づくのは、大人になってからなわけで、なんとかならないものか。

そんな話を長女にしようとしていたら、次女も寝床にきて、長女が占有している場所に文句をいって悪態ついて、二人が険悪になる。

長女の足の裏をぼくが揉んでいたために、足が彼女の布団からはみだし、ぼくと長女の間に次女が入れないのが不満だったのか。

わざわざ間に入らず、パパの逆サイドで寝ればいいたろ、が長女の主張。

たので、ぼくは去る。次女のせいで会話が途中になるし、長女は納得いかないようだった。日頃から彼女から次女のわがままに振り回され、そしてよく我慢している。姉だ。

メルの掃除をして戻ってきたら、すでに二人とも寝ていた。

長女、おばあちゃんに新しい靴を買ってもらっていた。足もずいぶん大きくなった。