クラゲとホットドック

子どもはまっさらな目で、世界を見て解釈しようとするから、話をしていて、たのしい。大人になるにつれ、わかった気になり、興味をなくし、観察しなくなる寂しさ。忘れていた感受性と想像力を働かせることの面白さを思い出させてくれる。

ぼくの仕事場ではたいてい何か問いかけたり、アイデアをいっても「どうかな」とか自分にはわかりません」とか「それはむずかしい」と返ってきて、会話が終わる。「なぜ、むずかしいとおもうか」とさえ問いかけるのもばかばかしくなるくらい、話は弾まない。「面倒な新しいことを言い出すんじゃない、ただでさえ忙しいわたしたちの仕事を増やすな」という胸の内が透けて見える。なので、基本的に問いかけるときはYES/NOの質問にする。さらには、「仕事がこうすれば楽に処理できる」というニュアンスがあればベストである。HOW?と問いかけてよかったと思うためしはない。彼らの精神安定となる前例がどこかにないか調べて、となるのが関の山。忙しく心の余裕がなく、意思を持ってもつぷされ、権力者の気まぐれに翻弄され続けていれば、学習性無気力で想像力が枯渇する。そうなるのも無理はない。10年経てば我が身体にも、同種の毒素は回っている。社会復帰はむずかしい。このシャバで、あと22年。生きるべきなのか。むなしい気持ちになり、話かける気がうせ、無口になる。どの道にいくにしても、つらかろう。気持ち次第と諦め、喝を入れる。日中はそんなことで、暗澹たる気持ちになる。

 

一方、帰宅してからの次女との会話。お風呂で。こないだの「すみだ水族館のチーズのホットドック、また食べたい」から始まる。

「あれ、高かったんだよ。パパの分買うのやめちゃった。570円。コストコだったら160円だよ。でも、コストコよりはちゃんとしてたから安心したけど」

ほんとうに、何もかも高くて驚いた。ビールも諦めた。ペンギンがそばにいるカフェ。入館してお腹すいたら最後。

「でもそうやって、心に残ってくれるなら嬉しいよ」

「うん。とても」

「クラゲ、たくさんいたね」

実にたくさんの種類がいた。大きいのも小さいのも、脚が長いのも、そうでないのも。一つ一つ、どんなのがあったか次女が振り返る。

「すごいデザインだよね」とぼく。

「デザインしてるのは、神様?」

「そうだね。神様のデザインは、ほんとうにすごい。白山にいったとき、いろんなお花をみたときも、ほんとうにそう思ったよ」

「デザイナーだった人が天国にいって、こう羽が生えて、頭に輪っかが乗るでしょ、そうなっら、その人を神様が取り込むんじゃない?」

クラゲも神様も天使も、曇ったガラスドアに指で絵を描く。

「話し合いしてるのかもよ。神様と、天使になったデザイナーたちで」

「ああそうか」

ごぼうは、お風呂が嫌いで入らなかったら、茶色になったんだって。人参は、お風呂が好きで、熱いお風呂にずっと入ってたから赤くなったんだって」

「それ、日本むかしばなしだよね?」

「そうそう」

神様とデザイナーの天使、そして、形や色が決まるといえば、あのむかしばなしのエピソードがあったなとひらめいていく。打てば響くとはこのことだ。錆び付いてない、みずみずしい脳のシナプス。歯車が軽々と滑らかに動いている。溢れるイマジネーション。うらやましい。

すみだ水族館。サメとかジンベイザメとか、いわゆる大物はいない。その割に入館料は高かった。映画2本分くらい。それでも彼女には、クラゲとホットドック、ペンギンと楽しい東京思い出として残ってくれているようだ。奮発した甲斐があったというものだ。こちらの仮死状態の脳も、活性化。いい脳の、心のリハビリ。生きる糧。父娘の生涯の思い出。東京連れてってくれてありがとう。