虚しい

「むなしい。誘惑に負けて、なんもできなかった」

この土日は息子は部活も塾もなく、自由だった。ゲームやらパソコンに没頭しているので振り返ったときに、どういう感想なのか聞いたらこの言葉。「たのしい」と返ってくるとおもいきや意外だった。

「誘惑に流されるなら、自分でなにかを勝ち得る人生は難しい。逆に何があっても大丈夫なように、流されることを分かった上で生き延びるようにしたらいい。虚しいも一つの価値観だ。」

ゲームにしても動画にしても、巧みな大人が本当にやりたいか、必要かを判断させずに、あたかも「やりたいことだ、見たいものだ」と幻惑させて、時間を奪い、そしてそれを商売にしている。消費であり、浪費だ。大人は子どもを丸め込む。手強い。

幻惑からは必ずいつか醒めるものだ。虚しいというのは、それによって時間を浪費したあと、はたと我に返り「ほんとうはやりたくなかったものなのに、していた」と気づくときに出てくる感情である。

本当に自分は何をしたいのかを考えて、部屋の片付けでもいい、親の手伝いの雪かきでもいい、トレーニングでもいい、自分から発起して、ほかから誘導されて流されたものではなく、自分がやりたいことをやる。自分の意志に基づいて行動する。それができれば、一日を振りかえったときに「今日はこれをやったぞ」と充足感を得られるだろう。自分の人生をどう生きるかは自由だが、虚しくない人生を送りたいなら、そういうことだ。そんな話をする。その行動がが少しでも、小さくてもよい。自分からの発意による行動が一つでもであれば。

この話をしたのは日曜の昼だった。そのあとは自転車に行ったり、机にむかったり、いろいろ能動的にできたところも少しはあったようにも見える。

君たちの目の前には、とにかくたくさんの情報がいろんなデバイスを通じて流れ込んでくる。ひっきりなしに、かしましく。まず、立ち止まって受け止め、考えることだ。短期的、刹那的な視野で、その場の雰囲気だけで物事を判断しては、たいてい誤る。一呼吸おいて、時間を置き、長い目で捉えて判断してみることだ。人生の時間はみな限られている。時に流されることもある。それもいいだろう。でも、流されれば流されるほど、その流れはどんどん速くなり、人生は短く感じられるだろう。記憶のほとんどは、忘却で満たされるから。

そして、未来ばかりみるな。君たちが迷うことは、たいてい、過去で同じ類の経験をした人がいる。小説でも映画でもいい、過去を参照するのが迷ったときの処方箋だ。未来のこと、新しいことばかり追い求めるのは得策ではない。明治維新以降生まれた、何でも発展や進歩・成長を追求する指向は、戦後日本が日本を否定し、リセットしたことでより過激になり、そして歪み始めた。過去を参照しづらくなったから。たしかに狂っていた、反省すべき暗黒の時代は昭和初期だ。しかしそれ以前は学ぶべきことも多い。もう子どもは増えない。成長神話は昭和・平成で終わりにしなくてはいけない。ではどうするか。しっかりと過去から学ぶことが、これからの未来を築くことにつながるとぼくは思う。想像力の源泉は過去にこそある。正月に話したことのつづき。