正月の言葉

正月の朝。3つの言葉を子どもたちに伝えた。

ひとつ、友だちを大切にすること。

ふたつ、人生の時間は限れている。いつか生きているものには死が訪れる。それがいつかはわからない。一日一日、その瞬間を充実するように大事にすること。

みっつ、本を読むこと。作りて

借りてきた映画『今を生きる』をみんなで見る。マイベストの一つである。妻は案の定途中で寝る。我が子たちは最後までみる。ぼくと朝言ったことと同じようなことをロビン・ウィリアムスもいっている。観おわったあと、次女が「わたしの一番好きな映画は『今を生きる』」と言ってくれる。心にくるものがあったようでうれしい。

もうひとつ、『グッド・ウィル・ハンティング』は息子と二人で観る。こちらもマイベストである。こんな脚本がかけたらどんなに楽しいだろう。息子も面白かったといってくれた。次は『ミセス・ダウト』を観せたい。

さらに、『ウォルト・ディズニーの約束』も。『メリー・ポピンズ』を映画にしたウォルトとトラバース婦人の話。万人が楽しむ映画でも、それをつくる過程では、必ず挫折と葛藤がある。それでも諦めず乗り越え、調整し、前に進める使命感に駆り立てられた存在、ここでは娘と約束をした父としてのウォルトの根性があるから、世に出る。

一応、ぼくが考える映画とテレビのちがいを説明しておこう。署名があるかないかだ。映画の場合、監督という全責任を追う者が明示されている。それは自分の人生を賭けて表現することの証だ。一方のテレビはそれが、できない。自分の表現よりも、お金を稼ぐことを至上命題にせざるを得ない宿命にある。映画もお金を稼ぐ側面は当然あるし、必要だ。しかし、署名は何より優先される。この重みづけは重要な差だ。

急いで付け加えるが、もちろんこの整理は乱暴で、偏っている。何事も一概に言ってはいけない志村けんさんやダウンタウンのように、ぼくの心に一生残る大事なテレビ番組もある。金を稼ぐことが目的で作られた、無理やり作らせられた価値のない映画も残念ながら、ある。よく「続編」にあるように。そして、いまはそれ以外の映像をつくるメディアもある。youtube。でもまだあれは金稼ぎのための消費、あるいは手っ取り早く情報を得る道具であって鑑賞までいかない。一方、Netflixのような存在が一番恵まれた製作の環境を用意し、一番ヒットする映像をつくる会社になりつつある。こちらは映画を食う志を持っていて、今後が楽しみだ。(だけど、それらの存在が映画の価値をかえって浮き彫りにしているところもある。映画館で暗いなかで、スマホをいじることなく集中して、大きなスクリーンにひとり向かって楽しむ。同時にそれは、大勢のみんなで一緒にみている。あの不自由さとみんなで人生を共有する時間の価値は、代えがたい。)

それでも、わかりやすいからこのような整理をして、あえて伝える。

署名性の有無の差は、見る側にとっても大きいからだ。映画は「鑑賞」になり、テレビの視聴は「消費」になる。テレビはどうしても、消えてなくなる。だから映画は歴史的にも残る。

鑑賞とはなにか。人生を賭けて作られたものは、その魂をおすそ分けしてもらうことになる。それは自分の心に入り込み、糧にできる。

ぼくが「本を読め」といったのも、ここに通づる。本にもかならず、著作者がいる。漫画にも。魂があるかないか。ものに触れるとき、それが大事なのだ。たとえば聖書。あれも魂の炎が何千年も続いているから、今も残っている。

これからの君たちは、たくさんのものに触れることになる。大事なのは「たくさん」ではない。そのたくさんの中から、何を選んで自分の糧にするか、その選別のほうが大事だ。そのとき、刺激の強さや新しさで選んでは惑う。魂があるかないか。その選別が一番得意なのはだれか。教えてあげよう。それは時間だ。長い時間、耐えて鑑賞されて続けてきたもの。その信頼にまさるものはない。まずそれから鑑賞したらいいよ。未来ばかりみても、見えてこない。大事なのは、過去にある。幸い人間の身体は何十万年も変わっていない。「いい」と思いつづけてきたものがあるはずだ。まずはその「魂」を、心の引き出しにためていくのがいいとぼくは思う。

本や映画以外にも鑑賞されるものはある。美術も音楽も演劇もスポーツも建築も街並みも祭りも、本来的には魂を伝え合うもの。できるだけ、それらに触れて、そしていつか、何でもいいから、自分で魂を伝えるものを作れる人に育ってほしい。