紅葉の信頼

中庭の紅葉を剪定した。かわいいからこそ、育って欲しいからこそ。紅葉はどこまでどう切っても美しい紅葉である。信頼できる友のようだ。人間ではそうはいかないことも多い。無心でもくもくと手作業を行うことは心が晴れる。手作業は着実に進み、裏切らない。具体的かつ身体的なほど、人が行う営みはこれまた信頼できる。紅葉の剪定には、二重の信頼がある。だから落ち着く。

一方で、学校で教えられることは抽象の世界に慣れることだ、という旨を司馬遼太郎のエッセイに書いてあった。

なるほど、世の中偉くなるとは具体から離れ、抽象の世界に適応する存在になるということのかもしれない。

偉くなればなるほど、一般的に言うことが抽象的になるようにこの社会はできている。指示と現場も乖離して温度や痛みが伝わらなくなる。自ずとそれは、退屈さを生む。

言葉に血が通わなくなるからだ。特にスピーチライターなる部下がスクリプトを書き、読み上げているだけなんて最悪だ。指示と現場も乖離する。自ずと言葉に力がなく、興味を引かない。中身はほんとうは別のものになんじゃないか。そんな疑念を抱かせる。

 

もちろん、どんなに偉くなろうと、現場から離れず、その指示によって動く人びと気持ちが分かり、信望を集める方もいる。中身と言葉が一致している。体温があって、生命の息吹をちゃんと言葉から感じる。そんな方は社会にとって希望だ。抽象と具体を、振幅大きく反復できる。想像力でワープする。魔法使いのようだ。

 

庭いじりをしながら思考に耽るのと、高層オフィスの最上階でネットでリサーチするのでは生まれるものが違ってくるはずだ。ぼくは前者のスタイルでいつづけたい。いつからか、あんなに働き、住んだ高層ビルにもう魅力を感じなくなってしまった。地に足がついて、樹がそばにあるほうがいい。

 

すぐに出来上がるものは、すぐに価値がなくなるのも世の常。時間をかけることはいまの時代どんどんしづらくなってきている。それは社会にとって不幸なことなんじゃないか。みんなが無心で手作業して気晴らしをする機会を逸している。心がくしゃくしゃに疲れたときほど、無心の時間は救いになる。