読書めも〜『建築家の年輪』

<建築家の年輪/真壁智治編/左右社/2018>

槇文彦

・私は、映画館に行くということは、一人の人間が、ひととき、日常とはまったく異なる体験に向かい合い、そしてその体験と感動の「余韻」を、見知らぬ人と無言で分かち合うものだと捉えています。(中略)ところが「シネマコンプレックス」は、とても合理的に映画を見るための施設です。便利さということを優先したために、何かまったく「余韻」のない場所になってしまった。

・人間を見てますと子どもというのは、国や場所に関係なく、みんな同じですね。それが、ある文化圏のなかで成長するにつれて、違いが出てくる。ところが面白いことに、老人を見ていると、また収斂していくんです。

前野まさる

世界遺産でワーワー騒ぐ前に、国が文化財としてちゃんとやれ、と。身の回りのことをおろそかにして、世界遺産になれば客が来るだろうなんて甘いですよ。

阿部勤

・建築家っていうのは、自分の設計で建てた建築を、自分の作品だと思っているじゃないですか、だけど僕にとっては、そんなのは真っ赤な嘘。
・そもそも建築を構成している木や石という素材が、建築家がつくったものでもなんでもない。素敵なマチエールかテクスチャー、質感は、もともと存在するものです。なおかつ、そこに職人が技を加えてくると、まったく、自立したものとなる。そういう、みんなの手、思いが入って、一つの建築になっていくのですね。

林泰義

・まあ、経済界の人たちは、相変わらず成長だと言っていますが、今、本当に必要なのは、成長ではなくて質の転換と循環なんですよ。

・もはや建築家が建築をやっているんじゃない。いろんな人がいるんかに建築の技術がわかる人がいて、地域の人と知恵を出し合って、形にしていくということが求められるんですよね。

林寛治

・僕は、街の煙たがられ役・嫌われ役として、ガス抜き的な役割をしています、と。そう答えるようにしているんです。でもまちづくりって、誰かそういう人がいないと進まないんですよね。

香山壽夫

・ですから時代には、常に両方あったんです。また両方あるから、暮らしている人々も古い町を愛してそのまま残したいと思うし、新しい町でまた、別の楽しみを見つけることができるのではないでしょうか。

室伏次郎

・なぜそういった多様な使われ方に耐えられたのかといえば、この家は、機能で設計していないからです。場で設計をしているから、何が起きても怖くないわけです。

・建築の悦楽ということが、建築に携わる限りいかに大切であるか、遅まきながら気になってきたんです。
・自分もそうだったけれど、若い時っていうのは、建築が本質的にもっている時間に耐えることが、なかなか困難なんですよ。それよりも新しい着想を求めるという比重が高いから、長い時間に耐えるよりも、新しい着想をどんどんエスカレートさせてしまう。