習慣的所作

妻が朝、和室のブラインドを明けて中庭から朝日を取り込む。内と外がつながる瞬間である。ぼくはたいていまだ寝床にて、そのブラインドの巻き上がる音を眠気眼で聴き、朝が訪れたことに気づく。

この所作は毎日行われる。この家ならではの、なくてはならない所作。和室だけではない。2階のダイニングのブラインドもそうだし、階段の途中の小さな窓の板を外すのも毎日している。そういう毎日発生する所作は窓にまつわるものだけではない。新聞を取りに行く、洗濯機に行く、お風呂を洗う。灯油を入れる。ストーブをONにする。ルーティーンの決まった所作が毎日ある。

家をつくるとき、この部屋で何をします、ということより、こういう所作のほうが本来主眼にされるべきなんじゃないかとふと思った。

この部屋で何をしますのというのはわかりやすい。だけどその分、不自由にもなる。食事をする、テレビをみる、寝る。それはここでしてください、と決められてしまう。むしろ、上のような生活する上でどうしても発生する移動だったり、外への応答だったり、それらの所作(「習慣的所作」とでも名付けられそうだ)の一つ一つのシーンが面白く、楽しくなるように演出されていたら家でも生活を楽しめるのじゃないか。アイランドキッチンも、料理をする場所という括りを超えて、キッチンの視線の風景を工夫したものだ。

我が家は寝る場所は前から書いているように、季節によって変える。夏ははなれに移住する。気分が変わるし、こんな小さな家でも大きく感じる。子ども部屋もない。だから子どもは本を読む場所もその日その日でまちまちだ。「何をするか」は割とどうにでもなる、いやむしろ場所を決めつけない方が楽しくなる可能性があるのである。一方、習慣的所作はあるのが当たり前で、家づくりの位置づけとしてないがしろにされている気がする。空間的に束縛されるのはむしろこっちの方であるにも関わらず。

幸い、我が家はそれらの所作は楽しめるようにできている気がする。例えば2階のお風呂場から洗濯カゴを一番下の洗濯機までもっていくのには、階段や土間を通りつつ、立体的に母屋の端から端までいくことになるので、この小さな家を大きく感じさせるにに一役かっている。便利とはいえないが。でも、便利さを追求したらそれらの効果は消えるように世の中できている。便利さを享受すると、感性が人質に奪われている。イソップ童話になりそうな、世の常。