「ねぇ、メルって、こっちがメルの言葉わかってないって、わかってるかな?」(次女)
朝、ぼくが洗濯物をたたんでいると。
「わかってないんじゃない?お腹すいたってないてたら、エサあげるし。」
ちゃんとメルと呼ぶと返事も返ってくる。ぼくが庭にでればついてくる。見えない位置に移動したら呼ぶ。求められ、返すことで信頼関係ができてる。言葉はなくても。
たとえ同じ日本語でしゃべってても、心が分かり合えない間柄は珍しくない。例えばぼくの場合は職場でよくあるし、もっともらしいだけで何もいっていない政治家の言葉は空疎でしかない。
それは言葉がなまじっか通じるという前提があるから、余計にストレスだ。でも、思想が重なることがないから、気持ちまでは重なず、話していないのと変わらない。
言葉が通じない前提で、分かり合えたという瞬間があるコミュニケーションのほうが、うれしくて楽しいこともある。