塾の思い出

夕食時。むかし、パパが小学校のときに通っていた塾は厳しくて、宿題をしていかなかったら先生が「ノートで頭叩くのが当たり前だったんだよ」というエピソードを話す。今じゃ考えられない。我が子がされてると考えたら親はどういう気持ちだったのだろう。

すかさず、次女が眉間に皺を寄せて「ボートで頭叩くの?」と怪訝な顔をする。みんなが笑う。ボートで叩かれるなら、まだノートの方がましだと、ひどい話をしたつもりだけどハードルが随分低くなる。

いまは同じ塾でもそれはなくなっているが、先生によってはペシペシと指示棒で頭を叩くのはあるそうだ。きっとその先生もぼくたちと同じ年代で、されていたから違和感なくやるのだろう。暴力や嫌がらせは遺伝する。

さてこの話をしたのも、ぼくはその塾がいやで仕方なかったからだ。宿題も全く最初はやらない、というか難しくてできなくて、やめさせてくれたらいいものを、母が代わりに算数の問題を毎週寝ないで解いていた。お金を払い、息子は勉強をせず、母が宿題をする。暴力を免れるため。塾だけが得していて、我が家にとっては不幸でしかない。

もっというと、ぼくはおじいちゃんからお金を拝借して、帰りにファミコンのゲームを百貨店で買って帰るという悪さまでしていた。おじいちゃんは次々にゲームが増えているわけだからきっと気づいていたのだろう。でも咎められなかった。その寛容さに救われていた。さらには塾から家まで路線バスで1時間あったから、終わった土曜の深夜はお腹が減っている。バスに乗る前にコンビニでお弁当を買って、温めてもらってそこそこ混んだバスの一番うしろの席で堂々と食べていた。車中においがぷんぷんであったはずだ。隣のサラリーマンがトゲトゲした視線を投げかけてきたことを今でも覚えている。ハンバーグは美味しかったけど、一緒に温かくなった横のサラダが美味しくなかった。

 

ぼくにとって往復2時間、土曜日に都会の街に毎週わざわざ通うのは小旅行だった。塾は恐怖だけど、道中は自由で楽しかったのかもしれない。家では夫婦喧嘩が耐えないし、塾も緊張するだけ。基本的につねに現実が嫌いだった。どこかに逃げたくて、それが祖父母の寺の家だったし、この道中だったのだろう。

そのせいもあってか、塾も次第になれて、通い続けることになる。いつしか先生に乗せられ、母ではなくぼくが宿題をやるようになった。おとなしかったので友だちはできなかったが、顔見知りくらいはできた。結局同級生になり、今でも仲が良い。

 

ぼくの両親は小学生を都会に一人で行き来させて、けっこう放ったらかしにしていたのだな。そしてあの頃のぼくに比べたら、息子たちはぼくのように悪さもせずひねくれず、素直に育ってる。結局息子はその塾には行かなかった。暴力はなくなって、随分親切で優しくなったのだろうけど、学業の成績だけがすべてというカルチャーは約30年前と変わらずおなじような空気としてはびこっていて、窮屈な感じがあった。もちろん、通わせる親御さんは我が子の成績が良くなって、いい学校とされているところに行かせることを求めているので、需要と供給はうまくいっているのだろうし、塾もプロとしての仕事をなさっているから、外野がトヤカクいうべきではない。とはいえ、ぼくは「いつまでやってんだ、そのゲーム」と若干思ってしまうのである。

なのでそれそれでよかったのだと思う。そして、小学校6年にもなったら親の知らない世界こそが楽しいはずだ。舞台から親はそろそろ降りるべきなのだろう。