カーネーションと餃子

今日は母の日であり、餃子の日らしい。ここ数日快晴が続いていて、実に清々しい。

長女と妻で夕飯の支度。ぎょうざをコネコネ、せっせとつくっている。次女は下の階でクレヨンしんちゃんに夢中。

「わたし、お料理たのしい。パパ、今日はやらないの?今度パパがお料理するときも、わたし手伝ってあげるね。」

食事のとき、長女が作ってくれたと褒めすぎると、次女が拗ねるから、次女の前ではあまり褒めないでおこうと口裏合わせをしていたら、なにか空気を察したのかタイミングよく、キッチンに上がってきた。

次女にも「作る?」と声をかけるとうなずく。次女がたどたどしく餃子の皮を手のひらにのせて作っている様子を長女がカメラで撮る。無事、これで二人で作ったことになる。

長男は今日、公文の一つの大きな区切りのテストを駅前のビルまで受けにいった。

付き添いで妻がいったので、ぼくはその間に長女と次女とお花屋さんに行く。子どもたちそれぞれが花束をつくる。一本一本、「これがいい」と長女も次女も気に入ったお花を選んだ。お花屋さんのおねえさんも丁寧に付き合ってくれた。

妻は息子のテストの間におばあちゃんに花を買っていた。

おばあちゃんに花を届けたあと、デパートのフードコートでうどんとラーメンをみんなで食べた。そのあとぼくは昼寝、次女はお隣のお家に遊びに行き、息子は勉強、長女と妻の夕飯の支度をした。

これから餃子を焼いて食べて、お風呂に入って、息子に勉強を教えて寝る。

特にどっか行ったわけでもなく、特別なことをしたわけでもないけど、一日家族でこういうふうに、あたりまえのように過ごす以上に幸せなことは、今のぼくにはない。

ひらがな

おどろいた。てっきり小学校1年生の国語は「あ」から習うものだと思い込んでいる。

「け」を習ったと長女がいうから、「じゃ、次は『こ』か」と訊くと「もう習った。」という。

一番最初は「し」から習うらしい。次は「く」。画数が少なくて書きやすい順。

「あ」をいきなりは難しいらしい。「め」も「も」もまだ。

「いろはにほへと」でもなく、「あいうえお」でもない五十音順がいつのまにかできているようだ。

 

いのち

お風呂で。

長女が「今日、いのちについて考えたよ」と授業の報告。

いのちのあるもの、を挙げていったらしい。人間、動物、他には植物。

「いのちのあるやつって、動くよ。」

横にいた次女が「木って、動かないでしょ。」と素直な反応。

ゆっくり大きくなったり、動いていることを説明する。

「じゃ、自動車は?動くでしょ。」

不意をつかれて「わからない。」と長女。

話は変わって、「木も、枯れたら死ぬよ。そしたら、動かなくなる。」

「じゃ、枯れた木が風に吹かれて動いたら、これは生きてる?」

「わからない。」

我ながら性格わるい質問ばかりしてしまうが、その「わからない。」という小学校1年生の実に素直なリアクションが正解だとおもう。

いのちって、考えだしたら大人だってよくわかんない。「やがて死が訪れるもの」という気もするけど、んじゃ「死」ってなんだとなるわけで、裏返しでしかない。

 

むしろ、種をもち(コピーではない)、個体を増やすことができるもの、とかはどうだろう。

ネットのウイルス。これはじゃあいのちがあるのか。いやない。だって種がないもの。

夢で

昨夜の寝床で。次女が一番最初に就寝。ぼくが添い寝する。

「パパ、わたしが寝ても、上にいかないで、ずっとここにいてね。」

寝かしつけのときだけ、横にいるのはいやなのだ。起きた時に寂しい思いをしたことがあるのだろう。

「でも、パパお皿を洗わなきゃいけないんだ。」

「お皿、何枚?」

「20枚くらい。」

「20枚!一緒に行く。」

「それは大丈夫。寝な。朝起きて会おうね。」

「朝までパイバイ?」

「そうだね。」

「んじゃ、夢で会おう。」

夢で会おう。即座に次女はそういった。粋なことをここで言おうとか、そういう意図はない。率直にそんな、現実と夢との境をヒョイッとジャンプできる。子どもは詩人なのだ。その発想に嫉妬しつつ、たっぷり褒める。

やがて、スヤスヤと優しい寝息に変わって深い眠りの中へ。

 

翌朝。起きてもまだ眠たそうな彼女を抱っこしながら、「夢で会えたかな?」と訊くと、なにかを思い出したような顔をして「うん、会えたよ。」という答えが返ってきた。ほんとかどうかわからないけど、嬉しかった。

 

BBQで

この10連休で、3回BBQした。たくさんの友人たちと会えて、いろいろ気分転換になった。「これからどうするの?」というのと「お前はこんなもんじゃないからがんばれ」という励ましも複数から。

ぼくはいま自分の人生よりも子どもの人生というのを優先してしまっているところもあるので、あまり覇気がある返事をしなかったことに、旧い友人にはくすぶっているようにみえるし、以前と変わって自信がなくなったようにも映って、歯がゆそうでもあった。

どうして自信をなくしているか。話をしていてわかったことがある。

これまで、ぼくは自分のキャリアで「まちがっている」と思うことは絶対にしなかったし、そうしない職場を選んできた。社会の役に立つ、そのことを少なくとも信じて仕事をしてきた。

だけど今のこの役所という組織の中では「ほんとは、これ、ちがうよな。生産性をあげたり、長期的に価値を出すには違うよな」と思うことばかりというのが正直なところだ。

でも、組織で仕事をし、下っ端である以上、自分の意見はほぼ通らない。「上の意向だから」、「そういうふうにいままでしてきたから」。その理由で事は進む。我慢しながら、歯を食いしばって、耐えなければならない。耐え難きを耐え、我慢もひとつのスキルだと誰かがいっていた。

でも、価値を十分に出せてないと自分が思っている以上、せめて給料の半分はもらわないほうが良かろう、だからこの育児制度を使っているというのもある。半分の給料で、倍の密度で、全力で仕事をする。どれだけ意見が通らなくても、懲りずに出し続ける。そのくらいの貢献で、今の自分の出している価値とのバランスはやっととれるような気がする。

とはいえ、自分の仕事に価値を見出す際に、そんな不信が通底しているというのは、自信が蓄積するわけがない。そこは冷静にわきまえておくべきだともおもう。麻痺せず、自分の理想は失わず、ずっと不適応であることを感じていないくては次の人生のステップへのエネルギーが湧いてこないし、中途から入った身だからこそ、傍から見ておかしいことに気づくし、有意義な指摘ができることもあるはずなのだ。内部でしか通用しない理屈に染まってしまっては存在価値がない。

幸い、今回会った友人たちは元からそういう環境にいない。自分の人生をまだまだ燃焼させようとしてリスクをとって頑張っている奴ばっかりだ。そいつらから「いまのおまえは違う」と言われるのは、まだ「あちら側」としてみられていない証拠だから歓迎すべきなのである。ひさしぶりにこちらもなんか熱いもの、みたいなのが残っているのような気になれた。

泊まりに来ていた友人が、風呂場に「Dear my best friend,stay hungry,stay fish」と密かに書き置きしてくれていた。

期待されなくなったら人生終わりだ。感謝である。

カワイイ

息子がコナンの映画を観に行っている間に、妻と長女と次女と近くのホームセンターのペットショップにいく。ぼくは我が子とペットショップに行くのが大好きだ。

長女は犬、次女は猫を飼いたいという。他にもハムスターやインコなど。

どれもカワイイ。お客の誰しもそうおもっているから実に雰囲気が温かい。

親にとって、カワイイ我が子がカワイイといっているのは、二乗のカワイイなわけで、もうたまらないのである。

気づいたことがある。

カワイイという感情のとき、人って確実に優しい気持ちになっている。

カワイイとヤサシイはセットなのだ。

カワイイを増やすと世界はもっとヤサシクなる。

少なくとも我が家は、カワイイ世界を築いて行きたい。

カワイイものを増やすというより、カワイイものに気づく感覚を広げるのだ。

さんはい

長女が小学校で覚えたフレーズ。「さんはい」。

お風呂場で「こ」とか「へ」とかつくひらがなを集めて、例えば「こども」と答えたら、それを風呂場の壁に書いて、「『こども』の『こ』、さんはい」と声を出して読むことを求められる。次女と一緒にいう。

すっかり気分は憧れの先生。