無駄

若い頃の特権は、思う存分無駄な時間を過ごすことなのだろう。若い頃に時間に追われて好きでもないことをがまんすると、大人になって、しっぺがえしのように余暇を求めるのかもしれない。一部、高みを目指して直向きに努力しつづけることができる人がいるが、みながそうではない。自分に甘く、怠惰で、逃げながら生きる人もたくさんいるだろう。ぼくもその一人だ。

 

高校時代、大いに時間を無駄にした。周囲の心配をよそに、本人は楽しんでいた。中学は好きでもない勉強を我慢しながらやった。浪人時代、親に頭をさげて、自分で決めて努力するようになった。予備校。はじめて授業や勉強を面白く感じた。大学も、建築に夢中になって勉強した。同級生が海外にいっているとき、大阪に青春をささげた。

 

とはいえ、結局このように堕落した。いまの仕事の手を抜いているという意味ではない。いいものをつくることには全力をつくす。当然、給料以上の仕事はする。しかし、人生を捧げたいとおもえる道をいっているとはいえない。むしろ、高くない価格で売っているという感覚だ。まっすぐの人生で自分の腕で勝負している人はまぶしく、羨ましい。

 

役所で高みは目指せない。心が拒絶する。物差しが中学の生徒会から変わらず、守られた環境での出世すごろくには興味をもてない。いい仕事との相関はないとはいえなくとも、薄い。アメリカ企業を辞めるとき、昇る意欲も一緒に捨てた。あっちでやるほうがよっぽどエキサイティングだし、可能性もあっただけに。

その分、支配される側のままなのは、仕方ない。いいように使われて、振り回される。努力してないのだから、それは甘んじるしかない。若い頃、ぼくは母や家系の価値観に影響されすぎて、反抗はしたものの、若い頃にそれらに振り回されたからかもしれない。ミーハーだったのだ。ミーハーは、毒でしかない。やっと解毒できたぼくは、もうおりこうさんにはなれない。求めたくはないし、あきらめる。

 

もちろん、いいこと、得難い経験できたし、たくさんの貴重な出会いもあった。とはいえ、自分の道をみつける余裕がなかったのかもしれない。親として「こうしたらよい」なんて言える人生でない。むしろ自分のように中途半端にやるな、といいたい。

人生はいつまでか、わからない。あまり将来ことは考えず、自分の心に素直に、無駄にできる特権を楽しみながら、道を外さない中で好きなようにしたらいいのだろう。息子は幸い、与えられた環境に無難にしなやかに対応して楽しむ術はもっているらしい。青春時代を元気に楽しく全力投球する。ぼくができなかった分、やってみて、悔いのないようにしたらいい。ぼくが大学生になったり、社会人になって特に評価された力は、高校時代の無駄に過ごしたあの日々、落ちこぼれだったときに、どん底から世の中を眺めたり、自分は何者であるかをもがき、真剣に考えた、あの頃に養われたものがベースになっている。無駄は、すべてが無駄ではなかったりする。