まちの楽しみ方

すぐ作れるものは、すぐ消えやすい。

与えるのが先、得るのはあとの人生か、その逆か。あるいは、どちらか一方か。

本を読む姿はみてて美しいが、スマホを触る姿はなぜ醜いのだろうか。

コロナのおかげで街から観光客がいなくなり、自分のもとに街が戻ってきた気がした。

オンライン会議でアイスブレイクがないのは、温度がすでに揃っているからか。枕がない落語は落語といえるのか。シームレスに枕から噺につながる、あの感動的な瞬間がないのは寂しい。

最近自転車のりながら、あるいは今日まちづくりについて知人と議論していて考えたこと。

家でも学校でも、子どもに秩序やお作法を守らせることに躍起で、自分がどうしたいか、表現する機会を大きくなるほどなくなる。それはやがて、大人になって会議で発言できない子になる。考えがあって、あえて発言しないならまだいい。「何も感じない」、「特にありません」という空っぽで不感症な感性にややもするとなってしまう。息子はすでに凝り固まってきた気もする。秩序のある日本人といえば聞こえはいいが、社会においてはたんなる使いやすい駒でしかない。

自分の街なのに、その街の楽しみ方を知らない。自分の街なのに、何が作られるかも関心がない。声もあげない。与えられるのが当たり前だという姿勢。欧米では中学校から自分の街の来歴や特徴について、日本のようにおべんちゃらで概要をつまらなく教えるのではなく、がっつし継続的に、重要なこととして科目として教えるという話を聞いた。そういう街は、やはり景観も街のスペックも成熟しているし、市民が積極的に参加するのだという。行政の側も、透明で建設的なプロセスを経る。

この街がまだまだやるべきことはある。まずは、公共建築のバックヤードを市民は見るべきな気がする。観光客はよそゆきな部分だけでいい。雨だったり暗かっり、市民は清濁合わせ飲みながらこの街に愛着を持てるか、が大事なんじゃないか。

これらの課題を肌身で感じ、浮き彫りにする、そしてこれからどうするか議論できる仲間がいることが今日わかったわけで、可能性の萌芽はある。