読書めも〜『白井晟一の伝統論と和室』

白井晟一の伝統論と和室/羽藤広輔/中央公論美術出版/2021>

・「限られた瞬間に特定の人間のみに媚びる様に造った建築に永遠の形など現れることはない」

・白井の造形における目的意識として、限られたその時々の機能的要請に応えることではなく、むしろ人間を鍛える永続性のあるものを目差していたことがわかる。

・「ただひたすら積んでいくという無心な努力の積み重ねの方が、人間がちょっと頭で考えたものよりももっとスケールが大きくて、それこそ大地に肉薄するようなものができる」

・「”わび”・”さび”とう消極性の極限にしても、まして卑賤な権力、文化や守銭、遊蕩、せいぜい”いき”の文化では、現代をかけて継承すべき伝統の仮託すら心もとない」

・書を書くことは、「空」や「無」といった対象となる概念を、不断の対決によって、自身の肉質に叩き込んでゆく修練であり、このことが「行」なのである。

・白井は、数寄屋を批判した上で、「書院の前身」なるものをめざすべきものとして挙げている。これは一部の人間だけが享受する、官能に媚びた装飾化した形式を否定し、民衆の生活の実用に即した空間をよしとするものである。この構図を、付書院についても考えてみると、「書院の前身」に相当する「出文机」という段階が指摘できる。なぜなら、付書院は、完成した書院造において装飾的な場所になったものの、その起源は書を読み、物を書く、生活の実用に即した机であったからである。

・『書に通ず』によれば、「書く」という言葉は「かく」という深みを持っており、「欠く」、「描く」、さらに土を「掻く」(カルティベイト)等、対象の姿を変え、何かの表現を生むすべての出来事を「書く」という行為は含んでいるという。これを踏まえれば、人間は、自分の周りの世界に存在している対象物を傷つけ、姿を変えることによって生き、生活しており、このような人間の「生」における根本的な行為が、「書く」ということの中に含まれている、と解釈することが可能である。