公共的な私性

いずれ詳述するけど、ものをつくる姿勢について。

私性が先にあって、をれを説明するために一般論を援用するのか、一般論が先にあって、それに立脚して私性を活かしてものをつくるのか。同じようで、まったく逆のアプローチ。広く社会が信頼し、納得するのは後者。私性を社会に捧げているから。最近つくづくそう思うようになった。「公共的な私性」と名付けたい。ものづくりに私性は不可欠だ。だけど、私性のために社会があるわけではないし、それは消費の対象になる。巷によくある「◯◯さんのデザイン」はそれだ。多くの人にとっては「ただオシャレなもの」でしかなくて、価値を見いだしにくくなる。メディアは取り上げやすく、出資者、クライアントだけがどうだと悦になる。デザインが、社会から隔離される。公共では、そこに陥ってはいけないとおもう。特に建築は、デザイナーよりも長生きしなくてはいけない。天下一品の香山先生のレクチャーは、それに気づかせてくれた。偉大だ。偉大すぎる。