市民プールと墓参りと母の思い出

いとこが帰京したので、子どもたちがまた普段どおりにパパに話しかけたり甘えるようになった。いとこがいるときは空気と化していたのに、うそのようである。風見鶏キッズ。

ここから3日間は息子は午前だけ学童にいくだけで、長女次女は保育園も休むから、べったり子どもたちと過ごすことになる。

子どもたちが大好きなぼくのいとこが帰省しているので、墓に参りつつ、おばさんの家にいく。

一緒に近くの市民プールに行くことになる。市民プールをあなどるなかれ。安普請だけど、グルグルスライダーが完備されていたりする。しかも料金は200円で、並ばなくていい。ストレスフリーですばらしいコスパ

息子は延々とスライダーを繰り返す。少年は飽きることを知らない。

長女はいとこにべったりで、スライダーをしたり、泳ぎ方を教わったりしている。

次女は浮き輪とかイカダのような大きなビート板を使ってぼくと一緒にプカプカ。

スライダーは20分やると40分のインターバルが入る。インターバルの間息子は暇そうに普通のプールに戻って、潜水をしたり過ごす。

暇そうだから「競争、する?」と息子に声かけると「うん」と乗り気で、25mの競泳をやることになる。ぼくは平泳ぎにしてやるから、好きな泳ぎ方でやっていいぞというが、最初は平泳ぎを選択。さすがにぼくの圧勝。次はバタフライを選択。これもぼくの圧勝。さすがに気づいたようでクロールを最後に選択。結構接戦になったけど、2mくらいの差でぼくが勝つ。スイミングを続けているだけあって、ずいぶん上達したもんだ。

次女はビート板を選ぶときもピンク色を選ぶ。それにしてもビード板ってかならず噛んだ歯痕があるけど、噛んでいる現場をみたことがない。いつ、だれがやっているのだろう。妖怪の仕業かな。

次女はまだ120センチないからスライダーは滑られない。横にちょっと大きめの水が流れた滑り台があって、上に連れていって「一緒に滑ろう」と誘うけど、怖気づいて「やだ、こわい」と尻込み。今日は無理だなと諦めていたけど、そのあと、いとこから「一緒にやったら、滑れたよ」と報告をうける。いとこのほうが一枚ウワテであった。横でうれしそうな次女に「パパ、みたかったよ」と嘆くと、「じゃ、みせてあげる」と今度はぼくと滑り台に向かって、一緒に滑る。さっきまでのビクビク顔はどこへやら、キャッキャいいながら水の中にジャボン。

長女はこないだ友達のお姉ちゃんからクロールを教えてもらったらしい。それをいとこに披露したくなったようで、5mくらい懸命に腕をクルクル回して、なんとか沈まずに進んでいる。呼吸の顔上げもなんとか様になっている。いとこが褒めるから、またうれしくなってやろうとする。ぼくの黒いゴーグルが気に入ったようで奪われる。いとこがまたそれを「かっこいい」とほめるから、鏡まで連れていけとぼくに命令して、プールの隅の鏡にだっこしてみせるとまた嬉しそうである。かわりにピンクのゴーグルを受け取る。

ぼくだけで連れて行っていたのではみられない、生き生きとした姿を、いとこが引き出してくれている。ありがたい。

 

プールに入って2時間半があっという間に経った。時刻は16時半。

子どもたちはアドレナリンが出続けているけど、ほどよいよところで「まだ帰りたくない」とブーブー言うのをいなしつつ、引き上げさせる。

おばさんの家にもどると、普段我が家では食べさせてあげられていない大きなスイカや梨をたくさん用意してくれていて、子どもたちとぼくは大喜びである。ミニトマトもたくさんもらった。

 

おばさん夫婦は今年金婚式だそうで、いろいろ昔話に花が咲いた。この機会に古い写真を整理しているらしく、母の若い頃、まだ独身の頃の白黒写真を見せてもらった。去年ぼくらが登山した山に、おばさん夫婦と登っていた。その山頂付近で撮った写真だった。ぼくがあまりみたことがない、リラックスして、自然ないい笑顔をしていた。

ぼくの両親が結婚した日のスナップももらった。仏前式で、住職だった母の父、つまりぼくの祖父が、自分の寺、つまり母の実家で司婚者を務めていた。

ぼくはこの写真を直視できない。母と父の結婚を、ぼくは肯定できないから。

結婚式の母の顔は、緊張のせいかあまり笑っていない。母は4人姉妹の4女で、婿養子をもらうことを両親からもらうことを強要され、そのために結婚したかったドイツ人の彼氏とも泣く泣く別れたとたびたび聞かされた。笑顔がないのは、望んだ結婚じゃなかったのではないかと訝しんでしまう。

そこから、母の人生は変わる。親に気を使いながら、怖い怖い旦那、つまりぼくの父からの日常的な怒号や暴力を恐れ、緊張し続ける日々が始まる。今ではDVという言葉があるから顕在化しやすいのだけど、当時は単なる「異様に烈しい夫婦喧嘩」だった。母が泣きながら包丁をもって立っていることもあった。長い長い喧嘩がようやく終わって父が寝ると、憔悴する母に近寄って慰めた。

小学校三年のとき、喧嘩の嵐が去ったあと、ついに母から「離婚することにした。お母さんと、一緒に来てくれるよね」と言われた。もちろん母に着いて行くつもりだったけど、父は「自分が引き取る」といってきかないという。

困ったぼくは、おそるおそる、寝ている父の部屋にいき、引き戸を開けた。中には入らず、暗闇に向かって、泣きながら「離婚すると、学校とかでもつらいし、やめて」と懇願した。普段から遠慮していたぼくが父の意に反するお願いをしたのはこの時と、犬を買うときと、浪人させてほしいといったときの三回しか記憶にない。当時のぼくは学校で仲間うちから軽い仲間はずれを受けてもいた。父は身体を起こすことなく「わかった。」と一言いった。

この二人が別れられないのはぼくが生れたからだ、と小さいころから思い続けた。田舎の世間体を気にして、だれにも言えず、周囲には家庭円満を装った。

それでも、ぼくが大きくなって父を批判すると、母は父を庇った。「父はまじめで、立派だ。どんなに仕事が大変でも、歯を食いしばってあなたを育てあげた。世の中にたった一人なのだから、大事しなさい」。今でもこの言葉が頭から離れないから、母を思うから、父には優しくしようと肝に銘じている。

一方で、おばさんによると、婿養子にきた父も、ずっと居場所がなくて辛かったのだそうだ。たとえば祖父がぼくに優しくて甘やかすから、ぼくは祖父ばっかりに懐いて、父から離れてしまったこと。親になってみて、それがいかに寂しいことかよくわかる。

仕事をするようになって、母が言うように、父が「歯を食いしばって」いたこともわかるようになり、敬意が出てきた。今でいうパワハラを、同じ上司から何十年も受け続けていた。ぼくなら、耐えられない。

不仲にどちらか一方だけが悪い、はないのだ。でも、母には別の人生を歩んでほしかったと思う自分がいる。あとで見つけた母の日々の本音が綴られている日記の、誰にも言えず、悩み、苦しみ続けた文面を読むと、やっぱり、そう思う。

 

プールで疲れ切った子どもたちは、21時過ぎにはみんな寝た。愛くるしい寝顔をみながら、この子たちには、両親の結婚というものを肯定できるように育ててあげたいし、そうしなくてはいけないと改めて思う。これはもう、使命だ。父の父がそうだったように、DVは遺伝するという説もある。それだけはぼくの代で断たなくてはいけない。

よく、男性にもかかわらず「週の半分休んで、給料半分になってまで、育児と主夫できますね」といわれる。「いいとおもうけど、おれはできないわ。」とか、特に年配の人は「出世に響いて当然だ」と露骨に反応する人も珍しくない。気をつかってくれつつも、本音はだいたい同じなのだろう。

そうか、ぼくはよっぽど特殊なのかと気づくのだけど、まあ、あれだけ特殊な家庭環境で育ったのだから、その反動だと思えば仕方ない。そう自分で自分を納得できるのである。幸せな家庭なんて幻想だとどこかで思っていて、結婚するのが怖くて、親になるのも自信を持てない人間が家庭を持てたわけだから、たとえ出世を捨てることになろうが、時間をかけて注力しないと不安で仕方ないのである。勉強嫌いだった親がやたら子どもに教育熱心になる現象と似てる。子どもに同じ思いはさせたくないという一心で、ぼくの場合はそれが家庭にあるわけだ。

そして大事な使命がもう一つ。母が注いでくれた愛情は、この子たちに返さなくてはいけない。胸をはってそういえる自分にならないと、あの世で会わせる顔がない。この子たちは「おばあちゃん」に会って可愛がってもらえない。だったらいかに立派で献身的で優しかったか、ぼくが少しでも示さなきゃいけないのである。もっとも家事の一切合切と、自営の塾を一人で切り盛りして、毎日数時間しか寝てなかった母の、足元にも及ばないのだけどさ。