死への感覚

昨日はイワシを刺し身で食べたくて、初めて3枚におろした。5匹のイワシをさばきはじめると、血がでたり内臓がでたりして、長女と次女がまな板を覗き込んで、しげしげとみている。

「生きてる?」

もう死んでるよというと、まだ手つかずの4匹を2匹ずつ、むんずとそれぞれつかみ、踊ったり、人形遊びのように弄びはじめた。悪気はない。

その様子をみていた息子が「やめな」と静止する。「かわいそうでしょ」

「なんで?もう死んでるよ」と次女。

「死んでても、だめだ」

「なんで?もうしゃべらないよ」

ぼくも息子の感覚は正しいと肯定した。やはり解せない次女。

息子は自分の身になって考えさせるように諭していた。

「そうだったら、いやでしょ」

「うん」と次女。伝わったようだ。

残りのイワシはまな板の上に戻ってきた。同じようにさばいているのを、長女は最後まで見ていた。次女は少し興味を失ったのか、見に来たりこなかったりした。

息子が死んだ生き物に対して慮る気持ちがあるとわかり、ほっとした。わからないが、あの強烈だった鳥を締めた経験が、活きているのかもしれない。