命をいただく

命をいただくということ。

米袋を息子が運んでいる。その中に、鶏が一羽。
これから絞めて、肉にする。

ここ数年、ずっとやらなくてはと思っていながらも、踏み切れなかったこの体験。息子とついにやった。

 

屠殺。残酷なことだ。
一方で、日頃お肉を食べている。背後にその現場は確実にある。それを見知らぬまま、スーパーで血がついていないキレイなお肉を買って食べてきた。どっちが残酷だろう。ずっとモヤモヤしていた。

 

ぼくらの自然体験のカリスマ、園長のシン先生が実家で鶏を飼っている。「いつでもどうぞ」と以前から声をかけてくれていた。
「ほんとうは、そこまでやって初めての食育なんですよ。園では、さすがにできませんけど。」

息子は小さいころから生き物が好きだ。動物を見たら近づいて、よく可愛がる。保育園には鴨もいて園庭でよく餌をあげてたし、愛着もある。

それだけに、踏み切るには勇気がいった。ショックを受けないか。残酷にならないか、とか。ぼくもやったことないから、予想がつかない。

 

心配だから、事前によく話をした。
友人から教えてもらった、アイヌの熊を食べるまでの話『イオマンテ』も前日に読んで聞かせた。
「なんか、こわいな。」
ずっと不安がっていた。ぼくも同じ気持ちだ。

 

いよいよ当日。
山間の集落にあるシン先生の家につく。息子の担任だったヨウコ先生も来てくれた。見知らぬ人じゃなくて、信頼するこの二人が一緒なら、大丈夫な気がしてくる。

田んぼの中にぽつんとビニールハウスがあって、その中に、たくさんの鶏が所狭しと動いていた。シン先生の手によって、一羽の鶏が捉えられ、米袋に入れられる。ぼくらが今日来なければ。すでに申し訳ない気持ちになる。

絞める現場まで、息子が米袋を運ぶ。中の鶏は大人しい様子。たまに覗きながら「かわいそうに」とブツブツ声をかけている。絞める現場もまた、別のビニールハウスの中であった。中に入ると温かい。

 

先にシン先生がお手本。選んだのは鶏ではなく、鴨。

さすが幼いころからやってるだけあって、躊躇はなく淡々とした手さばき。首を片手で持って、横に寝かして、もう片方の手でナタを持ち、ギリっと首に刃を入れて切る。無駄な動きがなく、一瞬の出来事。血が一気に吹き出す。脚を上にして、横桟に紐をかけて胴体をぶら下げる。血がドボドボしたたり落ちる。

 

驚いた。胴体は依然として動いている。羽は何事もなかったように、元気にバタバタ動いている。そんな感じが数分間ほど続いた。

やがて、ある瞬間にフッと何かが抜けて、動きが止まる。もう血も出てこない。天に召された、まさにそんな感じ。
「ここまでが、一番ショッキングなところなので、もうあとは大丈夫ですよ。」
頭を米袋にサッと戻しながらシン先生は言った。いつもの優しい口調で幾分か和らぐものの、眼の前の緊張感ただよう光景には、やっぱりズシンとした衝撃がある。

 

いよいよ、ぼくらの番だ。
怖じ気づいているが、覚悟を決めるしかない。

「一度ためらったら、もうだめですよ、お父さん。」
以前同じ体験をした長女の担任、リュウ先生から昨日受けたアドバイス。思い返して深呼吸をする。

 

「さあやるぞ」
そうはいうものの、言葉ほど決意できたわけではなく、ぼくの口から出た声は細い。

息子が米袋を開けて覗き込む。鶏は身動きをしない。この先何があるか「わかって」いて、観念しているようにもみえる。

「おー、よしよし。」
息子がここへきて、袋の中に手を伸ばしてなお可愛がろうとしている。それはまずい。時間が経つほど、感情移入するだろう。腹をくくって、米袋に手をおそるおそる入れる。ぼくの右手が首に触れたとき、「コケッ」と声をあげて、少しバタついた。ごく自然な抵抗。

「うわっ。」
ぼくもびっくりして、思わず手を引っ込めてしまう。鳴くの、やめて。

しばし一同沈黙。やばい。どんどん罪悪感と、ためらいの気持ちが湧いてきている。ぼくがしっかりしなくては。つられて息子もどんどん引いていくだろう。

 

気を取り直して、慄く気持ちを無理矢理かき消して、再度米袋に、今度は力強く手を突っ込んで、首を掴んで鶏を出す。

「カラダ、抑えとけ」
息子にいって、バタつく胴体を抑えさせる。まな板の上に寝かしつけて、ぼくはナタを手にして首にあてて、一気に首を切断。

その時、息子が思わず手を離してしまう。首のなくなった鶏はそのまま立ち上がり、2歩、ぴょんぴょんと血を吹き出しながら前にジャンプした。倒れない。首がないこと以外は、鶏のいつもの動き。このスプラッタ映画さながらの光景に、息子が思いっきりショックを受けたことは後々気づく。

ヨウコ先生が慌ててサッとキャッチして抱えあげてくれた。それを受け取って、逆さまにして吊るす。血があたりに飛び散る。

 

やがて、鶏の動きが止まる。

シン先生のいうとおり、ここまでの生から死への引導を渡すタフさに比べたら、後は楽な気がしてきた。「モノ」に見えてくる。まだ温かいけど。

ぼくが羽をむしっている間、息子はビニールハウスを出て遠くにいった。用水をみつけて、道端に積もっているなごり雪を足で落として溶かして、を繰り返している。きっと、一人で心の整理をしたいのだろう。

 

大人たちは一緒に羽をむしる。家畜の、独特の匂いが鼻につく。この単純作業が心を落ち着けるにはちょうどいい。繰り返しているうちに、だんだん平常心になってきて、雑談もできるようになった。

ヨウコ先生がいった。
手羽先って、1羽で2本しかないんですよね」
ほんとうだ。これまで一度に何十本と気軽にむしゃむしゃと食べてきたが、2本ずつ、この現場が1回あるかとおもうと気が遠くなる。

脚の窪んだところから生えている羽が取りにくくて残りがちになる。これは大変な作業だな。全部ムシるのに30分はかかる。加工工場ではどうやってやっているのだろう。機械でできる気がしない。鳥肌というあの点々のブツブツは、羽の根元の痕なのか。そんな当たり前のことにも気付かされる。地面に羽毛がたまっていく。これが布団やコートに入っているのか。温かいわけだ。

作業完了。羽を全部ムシり終わったら、もうクリスマスでお馴染みの見慣れた「チキン」になった。とはいえ、まだ内臓がある。胸を開かなくてはいけない。

 

ビニールハウスを出て、地下水が湧き出ているところに移動する。冷たい水で胴体を洗いながら、次は解剖教室。肋骨にナイフを入れ、開胸する。シン先生が内臓のつくり、各部位に分ける手順をやりながら説明してくれる。

内臓たち。
喉、食道、胃、レバー、腸。心臓と肺。焼き鳥屋でみたものがつながっている。
食道や腸は体内で破くと大変だから、慎重に胴体の外にそっと出してから切り分けて、洗う。ぼくの好物である砂肝はお尻の近くにあって、砂みたいなのがほんとうについている。これも1体に1個しかない。ぼくの捌いた鶏にはなかったが、別の鶏には卵の黄身がたくさん連なったもの、焼き鳥屋でいうチョウチンがお尻の付近についている。これも好きなやつ。ちなみに、卵もウンチもおしっこも全部同じ穴から出るそうだ。少し複雑な気分になる。

お肉たち。
肋骨についたムネ肉、脚の骨についたモモ肉。その名のとおり。同じ肉でも、役割違うのだから、肉質が違ってくることがすんなり納得できる。

 

この作業している最中に、妻と二人の娘たちが合流した。
解剖された鶏を見たのは初めてだろうけど、モノとなった状態はさほどショックではないらしい。普通に眺めて、やがて生きた鶏をみたいとビニールハウスに向かっていった。

 

それぞれの部位まで分けきって、ビニール袋に入れて全ての作業は終了。やっと、スーパーでみるのとほぼ変わらないところまで来た。

いつの間にか息子の姿がみえない。辺りを探すと、やっぱりさっきの用水で雪を落としていた。またもや心の整理中。呼びに行くと「もうちょっとで全部の雪が落とせたのに」といいつつも、素直についてくる。
「どうだった?」
「面白かった、でも、怖かった。」

 

先生方にお礼をいって、帰路につく。
近くで狩猟したという猪のお肉もお裾分けしてもらう。これも、命。おなじ肉の調達とはいえ、スーパーの帰りとは、気分がずいぶん違うものだ。

 

その後、ぼくはバスケに行くので、調理は妻に任せた。家に帰ると妻だけが起きていた。

妻の報告によると、食肉用に飼育されたわけでもないし、スーパーの肉と違って筋肉質で固かったらしい。それで長女が「このお肉、固い~」と正直な感想を言ったところ、横から息子が「残さずしっかり食べろ」と諭したそうだ。

 「ちゃんと、分かってたよ。ひとつひとつ『おいしい』って食べてた。大切にしなきゃって思ったみたい。」
息子が今日の体験をしっかり受け止めたようにみえて、感心していた。

 

妻が寝たあと、手付かずの内臓を焼いてビールと一緒に食べた。

誰もいない食卓だけど、しっかりと「いただきます」と声に出した。そうしなきゃ、食べる気分になれない。それにしても、なんて美しい言葉なことか。気持ちが落ち着いた。骨以外全部食べた。一番美味しかったのは、レバーだった。

 

この体験をやる前、シン先生はいっていた。
「これをやると、お肉を大事にしようと思いますよ。」
やってみて、心からそう思えた。

命をいただく重み。こればっかりは実際やってみないと分からないものだ。
ぼくらは普段、死というものをできるだけ遠ざけて生活しているのだな。それっていいことなのだろうか。遠ざけているほうが、残酷になるんじゃないか。

今回やってみて、つくづく「生きていること」のありがたみを実感した。人間は、人間だけで生きているんじゃない。他の生き物の命によって、生かされている。当たり前のことだ。でも、「命をいただく以上、しっかり生きよう」とまで思ったことはなかった。自然とそういう気分ににるのである。

 

「ごめんなさい」ではない。そう思うなら、食べない方がいい。
「ありがとう」なのだ。この気持ちを大切にしなきゃいけない。それができれば、大げさにいえば、地球全体に愛着が湧いてくる。必要な分だけ食べれば十分という気持ちにもなる。

 

週明けに、シン先生に改めてお礼をいうと、「では、また来年もやりましょう。」と誘ってくれた。「一回で十分です」という気持ちも半分。でも食べる以上、やり続けなきゃいけない気もする。

 

命をいただきながら、命を大切にする。
矛盾している。でも、それが生きるということなのだろう。
感謝とともに。