無力

何がベストかわからないなかで、最善を尽くそうと長くは15年、特にこの5年間つとめてきたが、どれも空回りにすぎず、まちがっていたのであった。何もしない、が正解だったのに。自らを責めつつ、取り返しのつかないことをした。申し訳ない気持ちでいっぱいである。

肝に命じるには遅いが、戒める。恐れていたことを、むしろ近づけ、ことごとくハマり望まない現実となり現れる。悲しいというか、みじめというか、言葉にならない後悔の念に苛まれる。

こうなることは、どこかでわかってもいた。無駄でさえもない。がんばらなくてもいいものに精を出し、マイナス効果を招いてしまったんだ。虚無。何もしない、が一番。

今日でちょうど、アナ雪の公開10年だそうだ。10年前の決断を、悔やむ。届かないのに、声を出し続ける。いささか疲れた。そろそろ気づけよという話で、ここから先は、惰性でよかろう。力尽く。頭を埋めてきたものを外に出し、空にして、ほかのことが入るように。

時間泥棒

スマホ中毒。つらい。

ジョブスの後に生まれた人間の避けられない宿命。片時も手放せず、それだけになる。意識が途切れ途切れになり散逸し、集中の持続がなくなる。

実世界への好奇心も根こそぎ奪われ、生きることに根差した判断力も育まれない。

スマホを考えた人はもちろん、興味がないものを必要な情報のように惑わせ、使わせつづける人も大金持ちになる。

術中にハマるユーザーは貢ぐ奴隷のごとく。支配者は、消費者のシアワセなど考えてくれてはいない。ゲームやギャンブルと同じ。お金もしかり、時間が搾取される。気づかず、這い上がることはない。

世界の貧富の差が広がり続けているという。必然だ。逆転は起きないよう、巧妙にレールは敷かれている。

 

何度か書いたけど、本を読む人の姿は美しいのに、スマホを触る姿がどこか情けないようにみえるのはなぜなのだろう。ホンとファン。生んでないのは同じなのに。

支配され、囚われていることへの危機感の有無か。本には、重さがある。閉じる能動的行為と、意思が一対一でつながっている。ファンだと、そんな区切りとなる行為が用意されていない。リアルタイムに情報も入ってくるから、なおさら。強い意志でないと、断ち切れない。

ひたすらのんべんだらりと時間が無駄になる。際限のない餌の提供、満腹中枢の麻痺。千と千尋の神隠しのお父さんが豚になった、あの場面が思い浮かぶ。人間性を奪われた従属。その危機感を察知しているのだろう。直感は鋭い。スマホをさわりながら、こちらも機械になっているんだ。

 

明日死ぬとなったとき、空を眺め、夕日を眺め、それでも本は読むだろう。「ありがとう」と「バイバイ」だけ投稿して、スマホは放り出すだろう。できるだけ人間のまま死にたいから。

人生の時間を浪費するのも、また人生。過度に便利になって恵まれれば、無駄づかいをしはじめる。

スマホを指で動かしても部屋は綺麗にもならないし、お腹も満たされない。手は、衣食住を整えるために動かしてたい。手を動かしていれば、いやなことがあっても、気持ちもスッキリする。スマホでは沼から出られない。人間は与えられるだけでは、幸せになれないようだ。身体はそのようにできている。

とっとと捨てたいでもできない哀しさ。人類全体の総じていえば、恩恵の方が大きいから世界に広まったのだろう。不可逆。でも、明日死ぬとは思ってないことへの甘えがあるのではないか。自戒を込めて。鴨になって、自らの翼で飛んでいきたい。中庭のメルをみて、羨ましか感じる朝。

長女を本屋につれていく週末。何度も読んでる『知っている』シリーズを、また読むために買った。そのなかの一節に、青色について語っているところがある。波長ゆえに、青は地球に溢れる特別な色。彼女が青色を好きになった理由。そんな手元に置いて起きたくなった文章に出会えたことは、しあわせなことだ。

牛乳

「学校の牛乳、苦手」(次女)

我が家の牛乳は好きらしい。味がちがうと。

学校のは「『農協牛乳』って、書いてある」そうだ。

「高級なの、苦手なのかな」

アハハと笑っていた。

確かに農協牛乳より安いのを主に我が家は買っている。

パパの

朝、小学校の近くまで次女を乗せる。雨が降っている。傘がないから、息子のえの壊れた黒い蝙蝠傘、ぼくがいまを使いなと促す。

「パパのは?」

ぼくは折りたたみがあると言うと安心していた。

黒い傘は不釣り合い。長女の年齢になったら嫌がりそうだけど、「ありがとう」と言って降りて、振り返って車窓越しに手を振り、差して行った。

あと数年したら、振り返ることもなくなることを知っているから、よけいに愛おしい。