快挙

今週は月曜日から金曜日まで全部夕食をつくった。洗濯、掃除もした。

何を仕事にするか2

子どもたちへ。

何を仕事にするか、というのを以前、香山先生の本を引用しながら書きました。そして、いま佐伯先生の本『「わかる」ということの意味』を読んで、さらに考えが深まった気がするので、それを伝えます。

「好きなことを仕事にする」という視点は大事です。それをできているオトナは100人に1人いるかないか、くらいだとおもいます。そうできただけでも大成功です。だって、その場合「休み」が「仕事を忘れるための時間」である必要がないのです。好きなことなのだから、休みの日も考えるでしょうし、それが苦じゃないのです。とはいえ、身体や頭を休めたり、いい仕事をするためにも必要ですから休みはとってね。

そして、もしも残りの99人になったからといって、ガッカリする必要もありません。どんな仕事でも、前向きな気持ちを忘れなければ、やりがいをみつけることはできると思います。その仕事を、あとから好きになることもできるのです。

では、そのときの「やりがい」とは何か。そのときはもう一つの視点、「その仕事をしている『自分』が好きか」というのが有効なんじゃないか、と気づきました。それが、佐伯先生がいう「双原因性感覚」というやつだと解釈しています。仕事をする自分がいて、社会がある。そして、社会の視点から、自分を眺めてみる。その仕事自体が好きかどうかという方向だけではなく、働いて、社会に貢献できているか。その自分が好きと思えるくらい熱中できているか。そういう双方向の視点です。

例えば、誰かから頼りにされて「ありがとう」と言われたり、自分が仕事をすることで社会が少し良くなったと思えたり。それを感じられたら、それが「やりがい」になって、もっと仕事を好きになるだろうし、自分も生き生きできるはずです。

その視点で眺めて、自分を好きになれない場合だって、時にはあるでしょう。自分の正義感に反していることを仕事だと割り切ってやっていたり、上司や同僚と肌が合わなくて会社に行くことが嫌になってしまったり。前向きになれないことも、人間ですから、そりゃあります。

そんなときは、どうすればいいか。むずかしいな。もしもきみたちがそれで悩んでいたら、どうアドバイスするかな。勝手にそれこそ親の出番だと思って考えてみる。

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・一度日々の仕事と距離をおけ:休んでじっくり考える。自分が必要とされ、または自分がその仕事を必要としているかを見極めたり。そもそも、その仕事は、いつの時代から、なぜ存在しているのか、スケールを大きくして考えてみたり。悩んでいるときは視野が狭くなるもの。想像を思いっきり広げて、普段見えてない世界を見たり、いろいろ飛び出してみましょう。

・お金のことは、考えない:仕事の内容で考えましょう。判断がにぶります。お金はあとからついてくる。目的にしない。同様に、ステータスや世間体、みたいなものも一度横におくといいね、そういうのは世の中の流れで変わるから。

・信頼できる仲間に相談する:腹をわって話せる仕事仲間や友人に打ち明ける。そういう人の意見は大切。謙虚に耳を傾ける。

・直感を大事にする:頭であれこれ考えることは限界があって、考えた末に、最後は直感でどう思っているか、を信じるというのもいいと思う。思考は相対的な比較で考えがちだけど、直感は絶対的な評価に近いんだろね。

・自分が「壊れる」と思ったら、逃げていい:まだきみたちの小さい頃しかしらないけど、きみたちは、信頼できる大人になるように、まっすぐ育っているとパパは自信を持って言えます。親として、責任を持ってそうなるように育てるつもりです。ぜひ、その「まっすぐさ」は大事にしてほしい。それが歪められる環境にいると感じたら、とっとと逃げなさい。そのまっすぐさが生きる環境は、必ず他にあります。

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そんなところかな。また思いついたら書きます。

ちなみに、上の視点って、実際に働いてみないとわからないじゃないか、と疑問に思うことでしょう。そのとおりです。いろいろやってみるしかない。

とはいえ、これからは、会社が人を選ぶのではなく、よくもわるくも、基本的にきみたちが仕事を選べる時代になります。つまり選択肢は多いし、たくさんの誘惑にもかられるでしょう。ちなみにAIが仕事を奪う、が本当だとは思えない。むしろAIのための環境を整えて、セットアップする仕事が増えて、人間は忙しくなるのではないかとパパは心配しています。ケインズが「孫たちの経済可能性」で将来は余暇が増えると予想して外れた、あの再来です。日々の時間がテクノロジーによってどんどん切断されて細切れになって、皿回しの皿はどんどん増える。その傾向が今後も拍車がかかっていくでしょう。それは精神的にはどんどん余裕がなくなり、追い詰められる環境なわけで、自分が時間とどうつきあうか、その適度な距離のとり方、その術を意識的に身に着けていかなきゃいけない。お金の使い方より大事になると思う。

暇にはならない。では仕事をしながら人生を楽しんで、豊かにするしかない。その前提で、ただ日々が目まぐるしくまわり、忙しくて疲弊する、きみたちがそんな波に飲まれないためにも、仕事を選択する上では、むしろその変化には鈍感であってほしいと思います。労働の形態や働き方は多少変わるでしょうが、人間が人間の助けを求めることは変わらないし、むしろ「人間だからできること」が純化して、気がつけば機械が誕生する前の、古代からある仕事は残りつづけるはずです。そちらに目を向けてほしい。たとえば農家や漁師やコック、シャーマンや僧侶、建築家や職人、学者やドクター、保安官や弁護士、または作家、歌手や芸人といった「人間くさい」仕事が、ますます新しい価値を帯びて見直されるでしょう。

時代がどんどん新しいものを追いかければかけるほど、時代を遡行するような波もその反作用としてかならず出てきます。どちらが自分の判断に落ち着きをもたらすか。それは後者に立脚することだとパパは思います。あれもこれも新たに必要だと欲望を掻き立て続ける波が前者だとしたら、何が本当に必要かを見極めていく、ダイエットのように無駄なものを削ぎ落とす波が後者だからです。時間の審判が下されている。時の流れを味方につけるというのはとても心強いのです。

いやむしろ、後者の視点を忘れては、前者の波に乗ったとしても、その質を追求できずに判断を誤りかねないから気をつけてね。その方がアドバイスとしてはリアリティがあるかな。技術進歩の波からは逃れることができないし、残念ながら不可逆なものだから。

どんな時代、どんな環境でも、人間は人間でしかないし、基本的に地球と社会がないと生きられない。そういうふうに、できている。そして自分にはウソをつけない。地球と社会と人間としての自分のいい関係。そうシンプルに考えたら、きっと選択肢はそんなにはないはずです。

要はパパの大事な子どもたちなので、きみたち自身も自分の気持ち、香山先生の言葉を借りればそれが「内なる声」ということなのかな、それを大事にしてほしい。その方が人生を楽しめる。何かいつもいってることと何も変わらない結論になってしまったね。そんなもんだ。

読書めも〜「わかる」ということの意味/佐伯 胖著

(すごい本に出会ってしまった。自分のもやもやと思っていた子どもの教育に対する考え、どうなんだろと思っていたのだけど、背中を押してくれるような内容で膝を打つ言葉の数々。25年前の本。教育って、この頃から何が進歩してるのだろうか。座右の書。)

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『「わかる」ということの意味』

佐伯 胖著/岩波書店/1983

 

・「子どもは常にわかろうとしている」本書が訴えたいことは、たったこれだけのことです。

・ヨコの「わかろうとする」というのは、いわば、「問題」があらかじめ定められているときに、「解き方」を考えている状態でしょう。「どうすれば解けるか?」、「正答は何だろう?」ということに関心が向かっているわけです。

・ところがタテの「わかろうとする」のは、一方では、「何が本当に知るべきことなのか?」、「どうしてそういうことを知っておくべきなのか」、などのような、私たちの社会や文化の中での、知識の価値や必要性を探っているのです。また、他方、「自分はどこまでわかっているのか?」とか、「自分には今何が必要か」をわかろうとする、つまり自分自身をわかろうとする、そういう営みでもあるわけです。

・「子どもは常にわかろうとしている」とはじめにいいましたのは、このような二つの異なったタテ方向と、その二つをつなげるべきヨコの方向へ、子どもは常に探求しているのだ、ということなのです。

・一番よく陥るあやまちは、ヨコだけに目を向けてしまうことです。その場合は、「子どもにわからせるべきこと」というものが外から与えられるわけです。子どもが自分でわかるべきことを選べるとか、選ばせるべきだという考えはありません。これこれのことを何が何でもわかってもらわなければならない、というしだいです。さらに、子ども自身がそれをわかろうとしているか否かは全くおかまいなしに、「きみたちはこれが必要なのだ」と押しつけてしまうのです。

・幼稚園のときからきびしい進学塾へ行かせ、はげしい特訓をさずけて、有名校へ入学させ、エリート・コースをたどらせれば「幸福」になってくれると信じ切っている親たちも、「わかろうとしている子ども」を見るのではなく、「わかっているべき子ども」を夢見て、それをむりにでもでっちあげようとしているにすぎないのです。

・もう一方の考え違いはこれとは全く逆です。「子どもにはひとりひとりの個性があるはず」という名目で、全く自然のままにしておくのがよいと考えてしまうことです。(中略)「あの子はああいう子なんだから仕方ない」として、とりたてて特別の働きかけはしないでよいと考えてしまうのも、子ども自身がさまざまな方向へ向けて「わかろうとしている」姿を見失っているのです。子どもの性格や育ち、環境のせいにして、教師の教育的責任を回避しようとしてしまうのです。

・もう一つ、私たちが陥りやすい考え違いについて指摘しておきましょう。それは、子どもを心から愛し、子どもを育てることに情熱を燃やしておられる方が陥る考え違いです。つまり、「子どもは無限の可能性をもっている」という考えです。子どもが思いがけずすばらしい能力を発揮したり、こちらが予想もしなかった面で才能を伸ばすことはよくあることです。どんな子どもにも、きっとどこか、すばらしい面が隠されているということは事実でしょう。しかし、私は「子どもが無限の可能性をもっている」ということばには、どこか危険な考え違いが潜んでいるように思えてなりません。
その考え違いというのは、「教える」ということへの過信です。どんな子どもに対しても、どんなことでも、熱心に、情熱を注ぎ込んで、根気よくはたらきかけさえすれば、結局は最後にこちらの期待するような人間に変えるはずだという信念です。子どもを愛しているようでいながら、結局のところ、子どもを自分の思い通りに変えたがっているにすぎないのです。

(中略)
その場合の「子ども」は、最初はひとりひとり違っていても、最後は画一的な「理想像」にはめ込まれているのです。私はそのような「教育熱心」のかげに潜む「教育者の思い上がり」こそ、大変危険なものだと思います。

・私は子どもが自分の可能性を自分で選んで、その子なりの可能性の中に花を開かせることに、最大の関心があるのです。「子どもは常にわかろうとしている」とは、こういうことなのです。

・私たち自身も未だ「わかっていない」存在とみなし、子どもたちも私たちも「わかろうとしている」ものと考え、「できること」から「わかること」へ向けて努力しながら、私たちの社会の文化をより価値のある、より人間的なものにしていこうという呼びかけが教育だというのです。

・「わかるということは大変なことなのだ」ということを正直に認めましょう。そして、私自身、わかったふりをかなぐり棄てて、何度も何度も「わかり直し」を経験していくべきだと思います。当然と思っていることを疑ってみたり、あらためて「やっぱりそうか!」と感動してみたり。私たち自身の、そのような「わかり直し」の渦に、子どもたちを巻き込んでいくのが本当の教育ではないでしょうか。「わかる」ということの感動、新鮮なおどろきを、私たち自身が再体験しておきたいと思うのです。

・のぞましい活動に、「生き生きと参加できる」能力というのは、単に、本人の性格(たとえば「外向性」とか「社交性」というような性格特性)に帰せられることではなく、本人の意志、そうありたいと願う心、そのように努めること、そして自分のもっている能力をすべて出しきって人びとと協力しあおうという試みなどに帰せられるべきことだと思います。
私たちは、「能力」ということばを、今まで余りにも狭い意味に解釈していたのではないでしょうか。本当に、「人間としての能力」というものは、このように、社会や文化にとって「のぞましい」とされることへ、自発的に生き生きと参加していけることにあるのではないかと思われるのです。

・考えてみて下さい。お母さんが「勉強しなさい」といったあと、ボクが勉強しはじめたら、ボクの「勉強する」という行為の原因は誰ですか?どう考えてもそれは「お母さん」ということになってしまうじゃないですか。(中略)だから、ボクはお母さんのいうことは聞かないのです。家庭の中で何か良いことをやろうと思っても、たとえそれが自分で本心から良いと思ってやることでも、結局のところ親の命令に従うということになりそうなのです。こちらが原因になってやれるのは、親が予想する以上に悪くみせることだけなのです。ほら、ざまあみろというぐらいのワルをやってのけたり、うまいこといいくるめてこづかいをせびってやるときだけ、ボクが原因となって結果を生み出しているのです。
ボクが「やる気のない子」になっているのは、ボクが本心では「外界の変化の原因になりたい」からです。(中略)でも、そういうところで示す「やる気」は、世間一般の人から見ると、やっかいで困った行動になってしまうのです。ボクもこれで良いとは思っていないのですが、ほかにやりようがないのです。

・ものごとが「できる」とか「できない」というのはどういうことでしょうか。
たとえば、「自分なりにできた」と思うことでも、他人の目からは「ちゃんとできてない」とされてしまいます。ほんとうは「できた」とか「できなかった」というのは、自分なりの実感であるはずです。ところが、やはり学校の授業の中では、自分なりの実感は無関係なのです。要するに、先生の目から見て、「できた」か「できなかった」のいずれかになってしまいます。

・ボクにとって、「できた」とか「できなかった」とかが、自分自身の変化の原因として感じられるためには、「できる」という状態を、ボク自身でえらび出し、自分でそれは向けて貢献しなければならないのですが、他人から勝手に「できること」を課せられてしまうのでは、いくら「できた」といっても、自分自身の変化の原因としての能力感(効力感)は得られません。

・家庭の中で、母親は子どもに語りかけることばのうち、一体どれほど多くが「○○しなさい」という強制になっていないかを考えてみてください。たとえ言葉ではいわなくとも、あれやこれや手だてを講じて、親は子どもにやらせたり、いわせたりしています。このことを反省してみることからはじめなければならないでしょう。

・私たちが、物事に熱中しているときの感覚というのは、自分が原因である(つまり、自分が対象にはたらきかけて変化を与えている)ということだけでなく、対象の変化そのものに導かれて、自分の中に変化が生じることも経験するのではないでしょうか。さらに没頭しつづけますと、対象そのものの世界が自分の中に入り込んできて支配し、自分は、対象の世界の必然性にひきずられてはたらきかけている、という心境になるでしょう。(中略)私は、このような対象の世界に没入したときの原因性感覚を、「双原因性感覚」と呼びたいのです。「相手が私を変える」、「私も相手を変える」という二つの原因性の感覚が一体となる実感です。(中略)この場合に、その「他者」というものが自己の心の中に入り、心の中に「他者」が有効的な協力者として住み込むのです。そして、自分の心の中でさまざまな活動をはじめ、自己の中の「自己」と友好的な対話をはじめるのです。要するに、自己の心の中に、一種の「世界」ないしは「社会」ができてしまい、その世界の中の自己や他者の活動が、協力的で建設的なものとして語りかけてくるのでしょう。
「何かがわかってきそうだ!」という心理状態は、正にこのような感覚の生まれているときです。

・先生は子どもを「ともにわかろうとする」パートナーとしてながめ、子どもは先生をやはり「ともにわかろうとする人」としてながめることが必要です。評価や教示活動は、すべてのこの「ともにわかろう」という共同作業の一環として行われているものでなければならないでしょう。

・子どもが何かを「できるようになる」ということは、特定の手続きを覚えてそれに習熟する(つまり、より早く、ムダなくムリなくムラなく反応できるようになる)ということだけではないのです。いつの間にか、もっとうまくやる方法はないか、なぜこのやり方でよいのかを心の中で吟味し、より深い納得を得ようとして、習熟のスピードを抑制してでも、ものごとの根拠を確かめるために原点にもどったり、あえて他の方法を試みたりするものだ、というのです。

・「わかる」ということは、
①具体的な問題が解決できること
②ものごとの根拠が示せること
③現実の社会・文化と結びつくこと
④関連する世界が広がること

・私たちは「できるようになる」ことを通して「わかる」活動と「わかること」と通して「できる」活動の両方のはたらきにより、ますますよく「できる・わかる」状態になっていくのではないでしょうか。(中略)私たちはうっかりすると、いつの間にか「単に『できる』だけ」か、「何となく『わかる』だけ」かのいずれかにすべてが分離されてしまうのです。

・世の中には一見おもしろくなくとも、少し根気よく取り組むと本当にすばらしい世界が見えてくる、ということは、むりにでも子どもに教えてあげるべきでしょう。

・考えてみますと、標準的な知識や技能の伝達を目的とし、子どもにそれを達成させ、評価するという学校の役割というのは、大きな工場の役割と似ています。標準製品を効率よく大量に生産し、その製品をもっていることを「常識」にしてしまうことによって、その製品への需要を高め、同じような製品をますます多く出まわらせることで生産を維持していくのですから。

・学校というものを、文化的実践への参加の呼びかけと、相互の「わかりあい」の場であると考えてみましょう。
・学校で学ばなければならないことは、
 ①自分が何を学ぶべきかが選択できること
 ②自分で自分の学びが正しいか否かを判断できること
 ③他人や社会と交渉をもち、社会や文化から新しい知識を証言できること
の三つのことが大切であることがわかります。

・「わかる」ということは、結局文化的実践に参加することなのです。参加するということは、本物の価値を認め、うけ入れ、そして自発的に価値の発見、創造、普及の活動に加わることです。
今日の学校では、このような「参加」が失われ、代わりに「伝達」が中心となっています。

・今日、家庭にも「文化への参加」が失われています。親と子が一緒になって、ものごとを「わかり直し」てみたり、「ほんとうのこと」を考えあったり、「すばらしいこと」に感動しあったりすることがなくなっているのです。
・小さなこと、目立たぬことの中の大切なことやすばらしいことを発見しあったり、なるほど確かにそうだった、本当にそうだったと叫び出したくなるような経験をもつことが家庭の中から失われています。


・「わかる」ということのすばらしさを、子どもに伝えようとする前に、まず私たち自身、体験してみようではありませんか。おたがいに、「なるほど、そうだったのか!」と感激したことを語り合い、「これは大切なことだ」と思ったら、熱をこめて語り合いましょう。自分たちもいかに「わかっていなかったか」を確かめあい、もう一度「わかり直す」よろこびを味わおうではありませんか。
私たちがそのように「わかろうとする心」を回復しはじめたならば、子どもたちも自然に寄ってきて、そのように活動に「参加」したがってくるにちがいありません。そのときは、否、そのときこそ、私たちは子どもたちの参加をよびかけ、一緒にわかろうとしようではありませんか。私はこれが一番自然な、そして結局のところ一番効果的な教育の真の姿だと信じて疑わないのです。

 

隠し事

久しぶりにデパートへ行って、買い物をしにいった。妻と長女と次女がH&Mでキャッキャと服を選んでいる。長女はピアノの発表会で切るためのドレスを選んでいる。

息子のハーフパンツを買ってあげようとサイズを選ぼうとしたら、140センチまでのサイズしかない。息子の身長は145センチになっていたから、150センチのサイズのものがいいのだけど、キッズにはもうそのサイズは品揃えはないのだそうだ。

では成人むけの小さなXSはどうかとそのコーナーに探しにいくと、ウェストサイズが倍くらいあってブカブカでとてもはけない。

この身長、この年令はぽっかり商品ラインナップから抜け落ちていることがわかり、男性陣は急に手持ち無沙汰になって、退屈になる。そしてそういうとき、心地よく時間を過ごせる場所はデパートにはないから好きになれない。

走り回ることもできず、「暇や」と息子のウズウズが始まる。もともと、こういう窮屈しそうな商業施設は息子は向いていない。

気持ちがわかるので、ちょっと外を歩いていると妻に伝えて、二人でデパートをそそくさとでる。

喉が乾いたというから、自動販売機で何か買ってあげようかとおもうけど、せっかくなのでマクドナルドでバニラシェークを買ってあげることにした。ぼくも初めてシェークなるものを飲んだのは同じくらいの年齢の頃だった気がする。こんなうまい飲み物あったのかと感動したものだ。

息子も美味しいと素直にチューチューストローをすすっている。

妹の二人がいたら、ぜったい「私も」っていうから内緒にしようなと口裏合わせ。

シェークを与えたら落ち着いたのか、歩き回る必要はなくデパートの前の広場で女子チームを待っていることにする。

女子チームが出てくる前にシェークのコップとストローは処分しておいたほうがいいよな、となって、息子が横断歩道をひとりで渡ってマクドナルド店内のゴミ箱に捨てにいく。

女子チームが出てきて、「お兄ちゃんは?」となるので指をさすと間に合ったようで横断歩道の向こうからわたってくる。

抱き上げた長女から、兄は「何してたの?」と質問される。

「いやちょっと」というやりとりでお茶を濁す

息子とぼくはなんとか証拠隠滅が間に合ってほっとしながら「さあ帰ろう」とみんなで歩いていくと、長女が「何か、食べた?」と聞かれる。

「何で?」

「何か、牛乳の匂いがする」

抱き上げると長女の顔がぼくの顔の前にきたから感じ取ったのだろう。ぼくが息子からもらって飲んだのは一口か二口なんだけどな。

警察犬のような嗅覚に舌を巻きながら、

「うん、バニラを飲んだ」

と恐る恐る薄情すると、

「そっか」

といって「私も飲みたい」とはならなかった。

女性のカンは鋭いとつくづく思い知る。男は隠したと思っても、女性にしてみたらザルなのだ。6歳でも簡単に見抜かれてしまうのである。

その鋭さでいつか男ともめなきゃいいなと思いつつ、いたく感心したのであった。

みんなお腹が空いたというので何が食べたいか長女にきくと「うどん」と返ってきた。

車にのって、うどんやさんがどこにあるかピントこないので「パスタでもいい?」と聞いたら「いいよ」といっていたのでいつものパスタ屋にむかう。

今日はあまり自己主張がないのは、発表会のドレスでお気に入りのが見つかったからかな。紫色のドレス。次女もおさがりではない自分の服を買ってもらったもよう。

服選び、娘たち自身がすごく興味深々に、積極的に選ぶところが、息子のときとは全然違う。フィッティングルームに入ってあれやこれややるくだりは、息子にはなかったな。

コナン

決めかねていた息子の10歳の誕生日のプレゼントは図書館にないコナンの日本の歴史10巻セットになった。1万2千円。どうしても10で割って1冊の値段を出してしまう。単行本にしては高すぎる感もあるが、まあ10歳の記念だしそこはケチるところじゃないとアマゾンで注文。

今日届いて、寸暇を惜しんで読みふけり、ゲラゲラ笑いながらもう彼はいま7巻を読んでいる。明日にはBook OFFとかもっていくんじゃないかという勢いである。「売ったお金でまた何か買えてしまうな。おそろしや」と余計な提案をしてしまった。

図書館の本はこの回転でもぜんぜんいいのだが、なんかもったいない気になってくる。他に読ませる方法があったんじゃないか。

ドラゴンボールのように8回ほど繰り返し読むのなら、いいのだけど。

おふろで

梅雨の涼しい日がつづくいていて、昨日はお風呂は湯をはることにした。今日は次女と二人ではいる。長女はピアノの練習を妻としている。

ぼくが先に湯船に入り、次に次女をひょいっと抱っこして脚の上に載せようとすると、彼女の身体が半分くらいしか湯につからず、それだと温まらないと「もっと深くがいい」とぼくの身体から降りてひとりで座って肩まで浸かる。

ぼくが脚を曲げて膝小僧が水面より上に出ていることを発見して、「ひざ、つめたいでしょ。お湯につけて」といってくる。脚を伸ばすと膝は低くなって水面より下にいく。それを見て安心する。

遊びたくなって、また膝を曲げて水面から出して「ひざ、出ちゃったよ」というとぼくの膝を手でおさえて「だめでしょ、下げて」と沈めようとする。しばらくしてまた曲げて出すと「ちょっと、だめでしょ」と今度は膝に全身を載せて沈めようとして「これで大丈夫」。それでもまた膝を曲げるとケラケラ笑いながら沈めようとする。

膝を湯船で曲げるだけでこんなに楽しくなるのだからすごい。しかも、ただ膝を水面に沈めるゲームではなくて、もともとは「パパがそれだと寒いだろうから」という他者を慮ることが動機なのがうれしいね。

しばらくしたら身体が温まったのだろう、湯船の外にでて遊びだす。曇ったガラスドアに絵を描きはじめる。今日は蝶の絵。

「蝶って、脚があるのかな」

「あるよ」

「ふうん。小さい?」

「細くて小さいね」

「お口は?」

「お口はね、ストローみたいなお口で、普段は渦巻きみたいに、あ、さっきテーブルでお絵かきしたでしょ、渦巻き。あれの形になってるんだ。花の蜜とか吸うときに、伸ばしてストローにするんだよ」

「へぇ。おいしいのかな。飲んでみたいな、蜜。」

「蜜ね、でも飲んじゃったら、チョウチョさんの分がなくなっちゃうね。」

心配そうな表情になる。

「花の蜜は、ぜんぶチョウチョさんが飲むの?」

「いや、ミツバチさんとかも飲むね」

「ふうん。チョチョさんとミツバチさんって、仲いいのかな」

「どうかな〜」

同じものを取り合うと、人間だとたいがい戦争になるけど、両者はどうなのだろう。

蜜はあなたの分はないですよ、というと「んじゃ、現在全部チョウチョの独占かよ」という思考になるのもなかなかロジカルで油断できない。

お風呂で他者を気持ちを慮る気持ちと現象を理解しようとする思考の端緒をみつけることができた。もうすぐ四歳。

シチュー

昨晩のシチューは作りすぎたことを告白せねばなるまい。一番大きな鍋に入り切らず、もう一つの味噌汁用の鍋に一部を移すことになった。

長女が手伝ってくれるといって、彼女は包丁でいろいろ切るのが好きだから、ジャガイモやニンジンをたくさん切らせたこともある。賞味期限が切れた鶏肉や豚肉もたくさんあったし、あとに引けないかんじもあった。けど、まだ適量がわからない。

ルーは使わない。いつもは味が濃いという妻が珍しく今回は「味、ある?」という感想であった。これもコンソメの素をいれたら妙にしょっぱいかんじがしたので、あとから牛乳をたくさん入れたからかもしれない。

でもぼくは薄いと感じてはいなくて、長女や長男も普通の食べている。妻が長女に「味、ある?」ときいたら「うん」と返ってくる。「わたし、さっきコンソメパンチを食べたから、舌がバカになってるからかな」とつぶやいていた。コンソメパンチは味覚を狂わせるのか。すごいパンチ力だ。

一晩たって、まだ大鍋にひたひたと入っている。週末全部シチューでもいいくらいだ。さすがにいやがるだろうな、みんな。