窓の外

朝起きて寝床で。妻が「海、はっきり見えるよ」とモニョモニョ起きかけの娘たちにいう。寝床には横に細長い窓が走っている。

窓をのぞきこみ、「ほんとだ」と長女。

まだ寝ている息子に「ねえ」と起こしがてら伝える。息子も身体を起こすついでに気になってみたらしい。

「ほんとや」

「パパもみな」と最後まで横になっているぼくに長女。

見てはいないけど「横長の窓にして、よかったよね。ちょうど水平線がよく見えるでしょ」と返事。まだ横になっていたい。

「うん」

実際にみてみると、街の先に広がる今日の海の色は空の青空より、ずいぶん濃くて、はっきりと境界がわかる。冬の間はお互いの色が近くてぼんやりしているのが常なのに。春だ。

いい朝

いい朝だった。快晴で、道端にはなごり雪。久しぶりに次女を自転車に乗せて保育園にいく。長靴はぼくが持っていくことになり、彼女は白いいつものスニーカーを履く。

 

視線の一番奥、山並みの最後部に今日はくっきりと白い山の頂部が見える。なかなかない日だ。

「あそこまで、夏登るんだよ。もう登れるよ」

「ぜんぶ白い。雪、まだあるんだね」

「ずっとあるんだよ。夏でも残ってる」

「夏でも寒いの?」

「そうだね。寒いよ」

「そうなんだ。高くなるから、寒くなる」

「よく知ってるね」

「だって、空に近くなるから」

 

「南極って、ずっと雪あるんでしょ」

「そうだよ。寒いからね」

「南極、どっち?」

南を考えて指差すと「こっちー」と嬉しそうだ。

 

木を指差して、葉っぱが落ちてることに興味を示す。木には、葉っぱが落ちるやつとずっとあるやつの二つがあること、落ち葉は土になって、木や草が育つことなどを解説。

「葉っぱって、土になるの?」

「そうだよ。そうやって、回っているんだ」

「こんな丸?」

「ん?」

次女が右腕をピントのばして、人差し指でスイカくらいの円を描いている。

「丸いんでしょ」

「回っている」ということばで、円を想像したのか。

「うん。回ってる。」

生けとし生きるものすべて。

「地球は人間ためのものじゃないんだよ。動物や植物、みんなのもの。」

「ふうん」

 

飛んでいく飛行機を2つみつける。首が心配になるくらい、顔を水平になるまで上げて空を見ている。

低く飛ぶやつが南に飛んでいったあと、また高く飛ぶやつが北に向かって行った。高く飛ぶ方から、飛行機雲が2本の線で吹き出ている。2本を見分けがついているので、まだ視力はいいんだな。

ああやってゴーっと吹き出すから前に進んでいると説明すると「最初の低く飛ぶやつは出てなかったよ」とすばやく反応。

「どこにいくのかな」

 

保育園に近づくと「降りる」と自分の足で歩き出す。

道端のなごり雪をスニーカーで恐る恐る踏んづける。数日前のものだから、ジャリジャリ固い。

「こないだのスキーの雪はどうだった?」

「柔らかかった。」

氷と雪の違い。

「これみんな、水になるの?」

「そうだよ。暖かくなるとね。オラフもなってたでしょ」

「うん。でもエルサで魔法で、ずっとそこだけ冬にしてもらってんよ。」

 

「ねえみてキラキラしている」

雪の白い表面に、小さなガラスの破片をばら撒いたかのように、どころどころが、そこだけ輝いている。

「電気じゃないんだよ。この光」

「そうだよ。太陽の光」

 

歩いては次の雪、また歩いてはその次の雪。雪は子どもにとって、格好のおもちゃなんだな。

やがて、「わっ」と鋭い声がする。

案の定、スニーカーを雪に深くはめていた。

「だいじょうぶ。靴も白いから」と冷静さを強調。

「中にはいったんじゃないの」

「ううん。ゴロゴロしてない」

「あとから、冷たくなるんだよ。靴下」

「そうなの?」

もうすぐで保育園である。友だちのママが車ですれ違い、手を降ってくれる。それがきっかけとなって、そのまま玄関までたどり着く。たくさん朝遊びたくて、8時半に行きたいとリクエストされていたけど、結局9時前であった。30分強の楽しい散歩である。

 

昨日は降園時、スキーウェアを着たのか尋ねると「雪少ないし、ジャンパーでいいと思ったんだ」と着なかったとの報告。今日も長靴も必要なら履けばよい、という判断をしたのだろう。

手取り足取りもう先回ってしなくてもいいことも出てきた。自分で判断してるんだ。

 

保育園につくと、自転車にぶら下げていた長靴を渡す。自分でこれも持っていこうとする。我が家の最後の園児、いよいよ来年度は最終学年。この登園の日々も終わりがみえてきた。背中をみながら、あのゴロンゴロンしてた次女も、すっかりスッとしたお姉ちゃんになって、頼りがいが出てきた。

息子と長女は今日「6年生を送る会」の本番だそうだ。息子は来年、いよいよ送られる側。

読書めも〜『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

<ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー/ブレイディみかこ/新潮社/2019>

・実は、英国の中学校教育には「ドラマ(演劇)」というれっきとした教科がある。(中略)日常的な生活の中での言葉を使った自己表現能力、創造性、コミュニケーション力を高めるための教科なのである。

・他人に自分の感情を伝えられない子どもは、他人の感情を読み取ることもできない。他者がつらそうな顔をしていたり、嫌がって泣き始めても、それが彼らに痛みを与えている自分に対する「ストップ」のサインなのだとわからない。

・自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるということだ。日本語にすればempathyは「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる適切な表現だ。

・つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくても自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

・It takes a village.
英国の人々は子育てについてこんな言葉をよく使う。「子育てには一つの村が必要=子どもは村全体で育てるものだ」という意味だが、うちの息子を育てているのも親や学校の先生だけじゃない。こうやって周囲のいろいろな人々から彼は育てられてきたのである。

読書めも〜『岡潔 数学を志す人に』

岡潔 数学を志す人に/岡潔/2015/平凡社

・道義の根本は、ややもすれば自分を先にし他人をあとにしようとする本能をおさえて、他人を先に、自分をあとにすることにあるといってよい。子供についていえば、数え年5つぐらいになれば他人の喜びはわかるから、このころから、他人を喜ばせるようにしつければよいと思う。こうして育った子は、外からはいる悪いものにも、内から出る悪いものにもおかされないと思う。

・現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない。そんな風潮が支配している時代なのだから、学問のよさ、芸術のよさもなかなかわからない。しかし、そこに骨を折ってやってもらわねば、心の芽のいきいきとした子は決して育たない。教育というのは、もののよさが本当にわかるようにするのが第一義ではなかろうか。

・数学が上達するためには大脳前頭葉を鍛錬しなければならないのはいうまでもありません。しかし、その鍛錬の仕方が大切だということは案外に気づかれていないようです。ちょうど日本刀を鍛えるときのように、熱しては冷やし、熱しては冷やしというやり方を適当に繰り返すのが一番いいのです。そしてポアンカレーのいう智力も、冷やしているときに働くものなのです。

・教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直感とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、心情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。

・そうでなくても学校は宿題が多すぎるのです。どうもこの人は子供の時間を残りなく何かで塗りつぶさなくてはいけないと思っているらしい。しかし人は壁の中に住んでいるのではなくって、すき間に住んでいるのです。むしろ、すき間でこそ成長するのです。だから大脳を熱するのを短くし、すき間を長くしなければとうてい智力が働くことはできまいと思われます。

・本だって読むことより読みたいと思うことのほうが大切なのです。

・戦争ばかりといえるゆえんです。こうなった原因は何でしょうか。
 私はそれは調和の精神なしに科学を発達させたのが原因だといえると思います。
 (中略)
 こういう世相にあって、のんきな数学などは必要ないと思う方もあるかもしれません。しかし、数学というものは闇を照らす光なのであって、白昼にはいらないのですが、こういう世相には大いに必要になるのです。闇夜であればあるほど必要なのです。

・人に対する知識の不足が最もはっきり現れているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。(中略)それを、ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎるほうがよい。これが教育というものの根本原則だと思う。

・ある時期は茎が、ある時期は葉が伸びるということぐらいは、戦時中みんなカボチャを作ったから知っているはずだが、人間というカボチャも同じだとは気づかず、時間を細かく切ってのぞいて、いいとか悪いとか、この子は能力があるとかないとかいっている。

・どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。

・頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。

・年長者を大事にしろというしつけをしていると、将来困ることが起きるかもしれない。

・さきに副交感神経系統についてふれたが、この神経系統の活動しているのは、遊びに没頭しているとか、何かに熱中しているときである。やらせるのではなく、自分で熱中するというのが大切なことなので、これは学校で機縁は作れても、それ以上のことは学校ではできない。(中略】こうしたことが忘れられているのは、やはり人の中心が情緒にあるというのを知らないからだと思う。

・よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。(中略)私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。

・全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。(中略)だからもうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきたときはもう自然に問題は解決している。

・数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見つけたときの気持だと答えたい。

・したがって、心の中に数学的自然を生い立たせることと、それを観察する知性の目を開くということの二つができれば数学がやれることになる。心の中に数学的自然を作れるかどうか、これが情操によって左右されるとすれば、よい情操をつちかうことの大切さは、いくら強調しても強調し過ぎるということはないだろう。

・たとえば小学校三年、四年生のころは、心のふるさとをなつかしむといった情操を養うのに最も適した時期ではあるまいか。「心のふるさとがなつかしい」という情操の中でなければ、決して生き生きとした理想を描くことはできないのだ。

・祖父は私の中学四年のときに亡くなったが、それまで私はずっと祖父から道義の教育を受けた。一口にいうと、まことに簡単「人を先にし、自分をあとにせよ」ということで、その点に関しては徹底したものだった。

・自分だけでなく、人も喜ばせなければいけい。

・おとなになってもそうだが、人の心の窓というものはめったに開いているものではないときどき開いておればわかるのである。そのときほうり込んでやることだ。

・このように、人が喜んでいるということは割合に早くわかるが、一番わかりにくいのは人が悲しんでいる、あるいは悲しむだろうということで、これは容易にはわからない。しかしこれがわからないと、道義の根本を、表層的ではなく、根源的に教えることができない。

・知的興味の特徴はこんなふうの質問にあらわれる。「ここにどうして坂があるの?」だから、そこに出てくる興味の芽ばえを「アホなこと聞く、この子は」と一蹴してしまわないことが、非常にたいせつである。とても答えられるようなことを聞いてこないのだから、むしろ不思議なことが聞けるものだと思ってみてやってほしい。

・この高等学校も非常にたいせつな時期である。人はそこで道義の仕上げをするとともに、理想の一番初めの下書をする。理性が本当に働きだすのもこのころからである。以前は理想をつくるために三年間という空白の時間を与えていた。そのことを意識していた識者も少なくなかったろうと思う。しかし、こんな時間の使い方はむだだとでもいうのか、真っ先に以前の高等学校をやめてしまった。それでは理想はつくれない。理想がつくれないのに大学が選べるはずがない。どの大学のどの科にはいるという選択もできない。そこでいきおい就職を目標にするのは当然だと思う。理想などいらないといって高等学校をやめ、次に道義もいらないといって義務教育が今のようになってきた。それが現状である。しかし私には、人生を渡る二本の橋は、道義と理想だとしか思えない。

・戦争をしないことを平和だと思っているが、そんなものは形だけで、内容がない。調和のあるものこそ平和というべきで、平和それ自体はそれなりの内容を持っているのである力の文明は野蛮だと思う。しかし野蛮は野蛮でも、人類はあやまちの過程をふんで文化にたどりつく。この野蛮を、文化前夜の野蛮とみて、私は将来に希望をつないでいるのである。

・ベドイヅング(意味)も何も考えるいとまがなかったから、原子爆弾を落としたりしてしまったに違いないのである。人類に対する利益だといっても、中身のことは考えずに、缶詰ばかりつくっているようなものだと思う。とにかく、情緒の中心が調和を失うことがどんなに恐ろしいかということは実在する。

・美とは美しいということでは決してない。人が追い求めてやまないもの、知らないはずだのに知っているような気のするもの、なつかしい気のするもの、である。

・智力の光はたいていの人についていえば、感覚、知性、情緒の順序で上ほどよく射しこみ、下には射しにくい。一番下のこころの部分は智力が最も射しにくく、日光に対する深海の底のようなありさまにある。この智力が射さないと存在感とか肯定感というものがあやふやになり、したがって手近に見える外界や肉体は確かにあるが、こころなどというものはないとしか思えなくなる。かのようにして物質主義になるのである。私欲の対象である金銭や権力が実在すると固執するだけでなく、情緒とか宗教といったものを毛嫌いするのである。

息子の根性

次女につづき、息子が胃腸炎にかかった。お腹も痛く、吐き気ももよおし、熱もあるようだ。にもかかわらず、日曜日の漢字検定の試験は行くといってきかなかった。別に義務でもないし、休むことを勧めたが「いやだ。いきたい」と。

まちなかの会場まで車で送る。車の間も、息子は助手席でリクライニングを倒して寝ていた。緊急時として妻を同伴させる。「気持ち悪くなったら、すぐにトイレにいけばいい」と口を酸っぱくしていう。もし会場で吐いたら大事だ。

息子と妻を降ろしたあと、長女と次女を図書館につれていく。久しぶりである。たくさん本を借りて、時間になったので再び息子の元へ車を走らせる。

会場脇の道に停車させて二人の帰りをしばらく待つ。しとしとと雨が降っている。やがて、あいあい傘で二人が前から姿をあらわす。顔に元気はない。

二人が車に乗る。どうだったか尋ねると、妻が関心して「無事乗り切ったみたいよ」と報告。息子もすぐ横になるが、試験自体の出来は満足だそうだ。

 

翌日の学校、行けるか怪しい。食事後、「なんか気持ち悪くなってきた」とそそくさとトイレに向かい、豪快に戻していた。「明日、休めばいい。無理するな」と背中をさすりながら促す。

「いやだ。行く」とこれも拒否。

「通信簿のあそこ、0を並べたい。」

あそことは「欠席」のところだ。皆勤賞を目指しているらしい。ぼくが0が並ぶのを褒めたことを気にしているのかもしれない。

父ちゃんもそういえば小学5年のとき、豪快に教室で吐いたことがあるというエピソードを披露する。いまでも覚えているということは、当時は相当な修羅場だったのだろう。必死にかけよってきた担任の先生の顔を覚えいる。クラスも騒然としていた。当たり前である。今では笑い話だが、息子に同じ轍は踏ませまい。

翌朝。お腹は痛いようだが、「行く」という決意は固い。

「父ちゃんみたいにならないように、早くトイレいけよ」

いざというときのために、ビニール袋をポケットに忍ばせておけとアドバイスするが、「いいわ」と拒否していた。

「大丈夫やろ。」

「給食のあとがやばいんだよ。気をつけろ」

「ほーい」

昨夜吐いたにもかかわらず、喉元過ぎたら全く緊張感がない。あとはなるようになるしかなかろう。

結果、下校時までは無事に乗り切ったようだ。義母が迎えにいって、病院に連れていってくれた。

夕食時、薬を飲むために、袋から出す。

「おれ、このタイプの薬、好きや」

カプセルの錠剤のことである。妹たちはシゲシゲと覗き込み、「これなんだ」と自分たちが飲む粉薬とは全く違うニュータイプに、興味津々のようす。

父の心配をよそに、結局今週学校は休まずに行ききった。普段みない根性を見た。

 

 

 

お金、仕事、自由

寝床で。次女から「なんで仕事したらお金もらえるの」という質問から始まり、仕事とお手伝いの違いとか、ものをもらうときにお金をもらうときとそうでないときの違いとか、どんどん深みにはまっていく。

「『ありがとう』といわれるときに、お金をもらえるのが仕事、とうでないのがお手伝い。」

そのほかにも、親が子どもに「お金ちょうだい」とはいわないのはなんでか、など。

 

「そうなんだ」

「『ありがとう』ってたくさんいわれたらいいよ。そしたらいつか、困ったときに返ってくるよ」

「ぜったい?」

「ぜったいかは、わからないな。」

「ぜったいだといいなぁ」

 

「お金持ちになりたい。お金持ちは、自由だもん」と次女。

「お金なくても、パパ自由だよ」

「あ、そうだね、家族といるし」

ぼくが家族との時間のために、仕事をセーブしてるのも理解してくれてるのだね。

「でもパパは、ハワイにいけないなぁ。」

「お金持ちなら、ハワイにいけるんでしょ。行きたい」

「そうだね。ハワイにいけないパパ。でも、お金持ちでも、ハワイに行けないひと、いるよ。忙しくて」

「そうなんだ。パパ、家にあるお金全部集めても、ハワイいけない?」

「行けるよ。でも、子どもが学校いくときとかに、それはとってある。そのことのほうが、ハワイ行くより大事だから。」

ふんふんと、納得したようにうなずいている。この子のものわかりのよさには目を見張る。

「お店って、お金いっぱいもってるんでしょ。お店屋さんになりたい」

「でも、お店は売るために買ってるから、出て行くお金もあるんだよ。つくっているお店もあるね、ケーキ屋さんは、自分でつくってるね」

「じゃ、ケーキ屋さんになりたい」

つくるのはそれはそれで出て行くお金あるのだけど、そこまでは説明せず。

 

自由とは何だ。気がつけばそんな話になっている。

「自由は、やりたいこと自分で決めて、できるひと」と、ひとまず説明。でももっといい説明がある気もする。自信なし。

「自由には、お金と、時間が必要だね。パパはお金ないけど、時間はある」

 

すると次女。「わたし自由だよ」とキッパリ。

「時間もお金もあるよ」

「そうだ。ここにいたね、自由なひと。もう、なってるじゃん」

「パパも、子どものとき、自由だった?」

「うん、そうだったよ」

 

将来なんになるか、三つで悩んでるらしい。ひとつはキャビンアテンダント

「もうひとつは、最初が『に』で、最後が『よ』でおわるもの。なんだ?」

「にんぎょ」

「正解。あとひとつは『か』からはじまって、『ん』でおわるもの、なんだ」

思いつかないので諦めると「カステラ屋さん」だった。

「カステラ大好き。あと、どら焼きも好きだなぁ」

「カステラとどら焼き、両方作って売ってる店、あるよ」

「え?!」

昂った声。興奮している。

「そのお店、いきたい」

パパの頭には、羽田空港の黒船が思い浮かんでいる。いつも出張帰りにカステラをお土産で買って帰るお店。

 

5歳になると、小さな哲学ができる。いやむしろ、この年齢だからこそ、小さな哲学を楽しめている。

天気予報

車で黄昏の空をみながら、次女が「晴れているところもあれば曇りのところもある」とつぶやく。

「ちょっと晴れて、ちょっと雨が降るかな。」

明日の天気を読んでいる。

2月だというのに、晴天になることもあるから、実に珍しい冬だ。もう夕庭の椿が赤い花を咲かせてしまった。