はれのひ

今日は澄み渡る晴天の空の下、息子と次女の入学式であった。長女も無事に進級した。

卒園式や卒業式は泣けるが、入学式は同じ式でも涙は湧いてこない。終わりがあるから涙は出てくるのだな。

朝は東京から写真家がわざわざ撮りに来てくれた。息子が小さな頃から撮影してくれている。家の周りと公園で撮影。この日しかない瞬間、妻の着物姿も撮ってもらえて感無量である。そして、その写真があるから式でも心に余裕ができて、撮影のことは気にせず満喫できた。

息子の制服はブカブカである。公園で家族みんなが横並びで手をつないでと写真家からリクエストされ、息子と手をつなぐ。久しぶりである。息子は積極的につなごうとしない。手からはみ出た制服部分を握る。長女はジャスミン・イエローのランドセルがすこぶる彼女らしくて似合っている。長女は次女が撮影されているところに割り込んだりしてリラックスしながらときどきポーズを決める。

 

同じ公立の小学校と中学校で形式はほぼ同じだが、やはり違いはあるものだ。クラス数は8組と多いにもかかわらず、名前の点呼があった。やはりありがたい。校長先生はいずれも優しそうだ。それぞれ式辞で3つの大事なことをおっしゃる。小学校の方はパネルで「あいさつ」、「なかよく」、「しっかり聞こう」というのをゆっくりした口調で大きく書いたパネルも示しながら話をするから大人も頭に残る。中学校は、自主性、起きる時間と寝る時間と勉強にとりかかる時間をきめること、をおっしゃったようだが、ちゃんと聞いてたつもりでも式が終わったら忘れてしまった。水のように流れていった。当たり障りのない、当たり前のことだったからかもしれない。小学校の方は「おめでとうございます」と言われるたんびに子どもたちは「ありがとうございます」と返事をするし、尋ねられたら答えようとしゃべる。息子のときもそうで感心した覚えがある。家で会話しているような、自然なコミュニケーションが校長と児童の間である。にぎやかだ。親から笑みもこぼれる。一方、中学校になるとそれは当然なくなる。動きも秩序があり、じっとしているし、とことん、静かだ。小学校の入場の歌は『1年生になったら』の童謡、中学校はクラシック。1年生の児童は足が床につかないから、多くの子は手持ち無沙汰にブラブラしている。体育館の床はぼくの小学校の頃は緑色のシートが敷かれているものだったが、いまはそのまま床に椅子が並んでいる。小学校は児童の椅子にはテニスボールが刺さっている。中学校はない。担任の先生の紹介は、小学校は一人ひとり名前を呼ばれたら右手を上げて大きく「はい!」と返事をして立つ。児童にお手本を示してるかのようだ。中学校は式を終えたあと、前に横並びになり、一人ひとり名前を呼ばれてお辞儀する。静かだ。最上級生からお祝いの言葉がそれぞれある。彼らは校長や来賓のように壇上からではなく、前からだ。あれもなにか理由があるのだろうか。形式とは強いものだ。人の動きを規定し、代々も受け継がれることで身体も「かくあるべし」と刷り込まれている。多くの人があつまり、その形式に身を委ねておのおの静かな時間を過ごす。スマホをさわることもない。偏っていないから、心がざわつくこともない。昨今ますます貴重な時間のようにも思える。

 

中学校の校長先生の話で思ったが、この式の空間には民間の経済活動の息吹がない。だから誘導的でもなく、偏りがない。だれにでも当てはまること。お話の内容もひっかかることなく、すっと流れていく。例えば、最上級生のお祝いの言葉で「これから勉強と部活を両立しましょう」といっても進研ゼミを具体的に推したりもない。おのずと、とても抽象的な話と、目の前の機械的な話題、例えば宿題、部活、生活サイクルなどに終止する。そのあいだの「どう考えるか」が抜けている。

「勉強の習慣をつけるためにも、宿題を着手する時間を決めよう」はある。だけど「なぜ君は勉強をするのか」が抜けている。「勉強」ということばあるが「学問」という言葉はなかった。「問う」がない。

一番印象に残った「義務教育はあと3年。その先はおのおのが自分で選択するのだ」という言葉。当たり前だけど、忘れていた。

親御さんの先輩がいっていた。「中学校の3年はあっという間」。実感がこもっていた。たしかに、次の我が家の式は長女の卒業よりもまた息子の卒業が先にくる。そしてその先は、自分で選択することになる。校長先生はおっしゃっていた。でもそれは、抽象と目の前の事務の間にある、抽象を具体を結びつける決断だ。それは自分の目線で、自分をみつめ、迷った末で結論を下すという、問いを立てた先にある。当然、個人で偏りがある。

中学校で、もしもその「間の思考」が滑落するとしたら、それは気をつけなくてはいけない。実はその思考が一番大事で、直接的に人生に影響を与える。そこで何もかんがえなければ偏差値などに周囲からの偏った借り物のモノサシがさしずめ自分のモノサシになってしまう。それは良くないし、続かない。自分の内なる声に耳を済ますことを欠いてはならぬ。

一方で中学校はルールだらけで、息苦しさもありそうだ。でもむしろ厳しくルールを押し付けられることは、「問う」ことに結びつくのかもしれない。自由では偏らない。ある反発したくなる壁があるから、パワーが湧き、本当の自分がみえてくるのかもしれない。

校長先生はおっしゃった。「中学校は思春期にも入り、自分でもなぜかわからないけどイライラしたりすることもある。そういうときは、なるべくそばで受け入れ、話を聞いてあげてほしい。親が一番のサポーターなのだから。」

 

小学校の入学式のあと、保育園にランドセル姿を見せにいった。保育園に近づくと、保育園の前の歩道を散歩する園児たち。車の窓をあけると園児たちが気づき、次女の名前を呼んで手を降ってくれる。一人や二人ではなく、けっこう多くの子が声をかけてくれる。次女が慕われていたというのが分かってうれしい。気持ちが園児にすっと戻ったのだろう、制服とランドセルのまま、園庭に駆け出して走り回る。

 

長女は教室が2年のときと同じであったこと、3年連続の友だちが1人いることを興奮気味で教えてくれた。寝る前に抱っこしてとお願いされ、すると「久しぶり」とつぶやく。

ドライヤーで髪を乾かしていると、「わたしの頭の中に犬のDVDがあって、それを再生しながら寝るの。そしたら犬の夢を見るの。わたしの頭の中はワンちゃんでいっぱい。」と嬉しそうに話す。今日はご近所さんのお家でしばしやっかいになり、そこにインコがいてiPhoneの音を真似できてかわいいと感心していた。

いい日だった。それぞれ、おめでとう。