はにわ

今日は、はにわづくり。小学生限定なので、息子と長女がそれぞれ体験。次女は残念なながら対象外だが、同伴し横で見学。案の定「自分もやりたい」と妻の胸にすがりついて泣く。すると係員のおじさんが優しい配慮で小さな粘土で遊ぶことができるようにしてくれた。

はにわは1リットルのペットボトル大くらい。粘土を切り分けて直径2センチ程度の紐状のものを直径15センチくらいの輪っかをつくり、それを積み上げていく作業。スカートや帽子を履いているのもあって、当時のファッションも分かるのだそうだ。馬のやつもある。当時から仲良かったんだ。はにはは古墳時代にお墓に一緒に入れていたもの。「おれの墓にもいれてほしいな」とぼく。

「おーわかった、入れてやる」と息子。

長女には妻が付添いつつ手伝い、息子は一人で黙々と作業する。ぼくは次女の粘土遊びにつきあう。勾玉とか首飾りのお手本を係員さんがもってきてくれて、それをならってつくるものの「次はこうしよう」と新しく作りたいものがどんどん出てきて、「できた」とならない。兄と姉の作業も2時間はかかるから、その方がいいので、ずっとコネコネしながら定まらない形を模索する。貝殻で模様をつけたり、お皿の形にしたり、竹で顔の文様をやりたいようにやっている。

はにわの丸い目、口と左右の手が上下にあがっているあのアンニュイな表情にみとれる。ストレスを感じずにこの浮世を生きていくようなしなやかさを感じる。妙に今の心情に染み渡る。ほんとうに墓に一緒にいてくれたら気楽だろう。

長女も見事な表情のものをつくっていた。まるい頭、高い鼻。お手本にそっくりで、彼女のまじめなところが出ている。はじめての2年生としては上出来だろう。

息子は初めての者には難しいといわれた頭が薄く山形になって開いたもので、一番遅くまで残って仕上げていた。本人としてもうまくいったと満足だそうだ。学校から持って帰ってくる図工の作品をみて、こういう作業は好きなのだろうと思っていたが、やはり夢中になっていた。学校でもこの調子なのだろう。彼の書く字のように、非対称でところどころがかたがり、いびつであるが、図工になるとこれが味になる。

これらは焼かれて来月に取りにきてもらえる。

次女は最後に女の子が笑った顔のペンダントをつくった。これは3日ほどで渇くらしく、そのままお持ち帰り。粘土がどんどん渇くので、丸い顔にお下げ髪をしっかりつけるのに苦労した。「もうあきらめたら?」とぼくが促したが「やだ、あきらめない」と主張した末に成功した。まんぞくそうである。笑った目や口は小さな丸い竹の断面を押してつくる。来年ははなわを作るのだと意気込んでいる。

 

手を使ったもくもくとした無心な作業。そして2つとして同じものはできない。手を動かしながら、これからの時代はこれなんじゃないかと思えてきた。頭だけを動かすのはもはやAIで十分になりつつある。手を動かしてできるものだったり、自分の手で生活を彩ったり、整えたりすることは単純に心が落ち着く。そして自分がつくったものは愛おしい。

子どもたちがつくったはにわが並ぶと圧巻で、画一的なものしかつくれない機械ではでない何ともいえないオーラがある。1500年前、当時は偉い身分の人と弔うためにこの作業をみんなでもくもくとしていたことを想像すると、今の時代の方が豊かだと胸を張って言えるのだろうかと不安になる。

前の黒板の上に、旧石器時代縄文時代弥生時代から現代までの年表がある。縄文時代の長さに驚く。現代なんて、まだまだ一瞬である。それだけ、効率的になり、変化の

スピードが早くなっているのだろう。時の流れが早くなっている。ずっと、人類はきょうのこねこね粘土をじっくりこねつづけてきたんだ。しっくりこないはずがない。

はにわには、目と口以外にお腹にも穴が空いていた。この穴がないと中に火の熱気が回らずうまく焼かれないのだという。製法上必要なのであるが、お腹が空というのも、なんとも浮世離れしていて、かくありたいとおもった。空っぽは強いのである。

 

帰りの車で来年から中学生になったら、こうして3人でイベントにこれることももうないのかとおもったらしみじみ胸にくるものがあった。息子は家族5人でこうして動くのもまだ違和感を感じてないので、なおさらである。このイベントは中学校になってもくることができるらしいから、毎年きて我が家に3体ずつ増やしていきたいものだ。