主語のない文

小学校の国語とかで、文は主語と述語からなるとある。でもふと気づいたのだけど、裁判の判決文の「主文」というやつ、主語ないよね。極端な例だと、映画の裁判のシーンでよく見る「被告人を死刑に処する」。「誰が/は」がない。では、誰なんだろう。私は?いやちがう。法律は?それも違う。法律は判断をしない。

強いていうと「裁判所は」、引いては「日本国は」か。ではなぜ言わないのか。「日本国は、被告人を死刑に処する。」こうなると感じる重みが、全然違う。でもあえて言わないのは、「言わずもがな」だからではない。

主語の解釈を敢えて自由にすること、いやそれもあるだろうが、「日本国は」と明示しないことで、罪悪感が、少し薄れるからなのかもしれない。言わなければ、自分たちではなく、「閻魔大王は」くらいに思える余地も、まだ残る。

別に死刑制度の話をしたいわけではない。文が、主語をもたないことが、ちゃんとしかるべき役割を担うことだってあると思った話。