念仏

小さな頃、枕元で僧侶の祖父は「なむあみだぶつ」を繰り返し唱えながら寝入っていた。仏様からのお与えの命、といいながら日々に感謝しながらその1日を終えていた。横で一緒に寝るぼくは、毎日のように繰り返されるその念仏をただ聞きながら、人生とは、命とはそういうものなのかな、とぼんやり受け止めていた。トランジスタラジオからは落語がいつも同じような流れてきていた。

我が子を寝かしつけるとき、ぼくの場合は我が子たちに「だいじだいじ」と言い聞かせることが祖父の「なみあむだぶつ」のようになっている。もはや意味というより念仏に近い。

昨日は次女を一人寝かしつけるとき、また「だいじだいじ」をいったら「なんで、大事なの?」と質問してきた。むしろ目がさえる。なんでかな。なんて説明しようかな。大事なものは大事なのである。理由あったっけ。

しばらく考えて、次女の存在は世界で一つで、パパとママの子どもは世界に三人しかいなくて、お金では買えなくて、かわりがいないから、みたいなことを口走っていた。家族のつながり、をいざ言葉にしようとするとむずかしい。

「だから、守ってくれてるの?」

「そうだよ。」

「弱いから?」

「ちっちゃなときは、そうだね。親が守らないとだね。元気に大きくなってほしいから。」

「でも、パパとママだけだと守れないから、おばあちゃんやおじいちゃんが手伝ってくれてるの?たいへんだから」

答えに窮する。そうなの、かな。

「うーん、ちょっとちがうかなぁ。おじいちゃんとおばあちゃんにとっても、大事だから、守ってくれてるんだな。パパとママだけじゃないんだよ、家族みんなにとって、大事なんだよ。

たとえば、もうお空にいっちゃったけど、パパのおじいちゃんとかおばあちゃんも、お空から守ってくれてるよ」

「ぼくもお空にいくの?」

「まだずーっと先ね。おばあちゃんになってからね。」

「ふーん。」

「元気に、大きくなってね。」

納得したかどうかわからない。もっとうまい説明の仕方があったような。

まぁしばらくしたらいつものように、腕の中でスヤスヤ眠りについた。

いつか、この子が大きくなって、孫を寝かしつけるときとか、パパは「だいじだいじ」と念仏唱えてたなと思い返すときがくるかな。根底に影響を与える人生感は、寝かしつけのときに植えつけられる気がする。お与えの命。感謝しながら、大事な分、前向きに生きていってほしい。