カールじいさんのように

「ねえ、風船何個にしたら、空とべるかな?」(次女)

寝床で。寝かしつけのとき。

誕生日プレゼントのおまけで、普段はほしいといってもスルーする、レジの横にあるヘリウムガスの入った風船を買ってあげた。アナ雪の絵柄。800円もする。3週間ほど隣の和室で浮かび続け、しぼんで落ちてきた。説明していたので心の準備はできていたけど、やはり寂しそうだ。

ヘリウムと口で空気を入れた風船と何が違うのかイマイチわからない。なんで浮かんでいるのか。そりゃそうだ。ぼくもうまく説明できない。そして、風船を持つと飛べると思うのも無理はない。そこで上の質問だ。実験したテレビの企画とかないものだろうか。あぶく銭でぜひ一度試してあげたい。

 

人気と争い

家族全員梨が大好きで、梨にだけはお金に糸目をつけないようにしている。唯一のぜいたくである。次女の同級生のおうちから買う。10個買ってもすぐになくなる。そして、無精で家事ができない息子までついにほしいときは自分で切って皮をむくようになった。昨日は妹たちが「ちょうだい」といっても独り占めしたいとあげる素振りを見せなかった。長女は見限ってこれまた隣で自分で向きはじめる。次女は長女からもらうが、自分も切りたくなって最終的に3人がキッチンに並ぶ。長女は妻とぼくにも配ってくれる。分けようとしない息子のケチさに辟易とする。ブツブツとぼくらがいっていると長女にひとカケラわけていた。それぞれ、自分と他人はいくつのカケラを食べたか気になり、とりあいになる。梨はおいしいが、おいしすぎるために家がいちいち険悪になる。なくてはならないものだが、めんどうでもある。

働く場所でも同じようなことがある。絶対な存在がいて、みなが慕い、集う。仲間だったはずが、われこそはと、その方から寵愛を受けようと動く。他人の足を引っ張ったり、狡猾な者もでてくる。清らかで健全な世界のままではいられない。いつの世でもあることなのだろう。子どもたちには、そういう狭い環境はあまり勧めたくはない。進んだとしても、その争いに執着しなくていい。特定の人の価値観に縛られるのではなく、広い視野で好きなことを探求してほしい。

笛の音

丘の上の保育園からは随分はなれているが、鋭いピッピッという笛の音が聞こえる。運動会の練習中なのだろう。組体操と全員リレー。朝次女を送った際。担任の先生から「集大成みせます。子どもたちのやる気すごいですよ、お父さん。ぼくもやりがいしかないです。」と熱気のこもった言葉。「期待しています」と返すと「あまり期待せんといてください、プレッシャーに弱いのでぼく」とのこと。どっちなんだ。

我が家にとっては最後の保育園の運動会はもうすぐである。次女も家での語り口からはりきっていることがよく分かる。小学校は運動会の参観はなくなった。悔いのない応援をしたい。

 

ホッケ

「魚はなんで水の中でも苦しくないの?」(次女)

夕食時、焼いたホッケの開きを食べながら。プールで潜ったら人間は苦しいのに。

エラについて教える。長女は保育園の自然体験の思い出、イワナつかみのときにエラを知って、補足説明してくれる。ついでにイワナの塩焼きが美味しかったこと、焼く前に内臓をブルっと出した様が気持ち悪かったというエピソードを語ってくれる。

次女はホッケならでは、きれいに真っ直ぐな背骨全体がつながって取れてシゲシゲと眺め面白がっている。

ピュアな生命

息子のイチジクが小さな小指の先程の実を初めてならせて、見つけた息子は喜んでいる。とはいえ毎日水をあげてるのはぼくである。

朝顔も花がいよいよ盛りでもうそろそろ種を残し茶色くなっていくのだろう。和室に入る朝日の直射を遮ってくれて、優しく光を分解してくれて心地のよい緑のカーテンであった。

生温い風しか出さなくなったエアコンが修理されて、保証期間で直って安堵。でも急に涼しくなり今年はもう使わなさそうである。

和室からのその視線の先には中庭のメルが歩きまわっている。大したことをしているわけではないが、見飽きないのはなんでだろう。歩いて、羽を広げ、片足で立ちもう一方の足をグイと後ろに伸ばしてストレッチし、水場で水を飲み、水を浴びて、くちばしで毛繕いをする。餌場にいってついばみ、お腹が落ち着くと日陰をみつけて座り込む。やがてまぶたを閉じて寝る。呼べば返事をする。その何種類かの所作のランダムな繰り返しなのであるが、みていて次は何をするのかと楽しみなのである。どんなに精緻につくられたロボットでも、この味は出ないであろう。

おそらく、何にも邪魔されず、邪念もなく、迷いもなくただ目の前のやりたいことをやって純粋に「暮らし」を遂行して、生きている。それが実に羨ましい。朝顔もイチジクもしかり。我が家はそんなピュアな生命

たちに囲まれている。

仲良し

「ねえ、なんでケンカしているのに、仲いいの?」(次女)

朝。息子と長女を学校に送ったあと。家に残って保育園への出発をまつ次女と妻とぼくで会話。「来年もう小学生だね。そしたら、お姉ちゃんといくのかな。」とぼく。

「そうでしょ」と妻。ランドセルが2つ横にならんで歩いている姿を想像する。

「お姉ちゃんいて、よかったね。姉妹仲良しで。」

先輩の存在は心強いはずだ。

うれしそうにうなずきながら、「だけど、ときどきケンカするけどね」と次女。

「でも、仲直りするでしょ。ケンカするほど、仲がいいってことだよ。」

そしたら素朴に上の質問が返ってきた。

 

「言いたいことをいうから、ケンカになるんだ。言いたいことをそのままいえるって、すごいことなんだよ。」

次女に「いいたいこと、ぜんぶいってるでしょ?」と尋ねるとしばらく考えて、首をふる。

「いいたいこと、ぜんぶいってるでしょ?『これ、わたしの!』とか、『わたしが先!』とか。」

そう妻からツッコミが入る。その風景、よく見る。

一方でお姉ちゃんは「言いたいこと全部いっていないけど。」というのが妻の分析。

 

言いたいことがどんどん大人になると、社会ではそのまま言えなくなる。遠慮のない関係はかけがえのないものだ。家族やきょうだいこそ、遠慮する場合もある。ぼくが父親にそうだったように。子どもたちもすでにそうなっているかもしれないが、なるべくいいたいことがいえる仲であり、ケンカしても後腐れなく仲直りできる関係を、この家族はキープしていきたい。