かみさま

長女と妻はピアノ教室の振替で、息子は友達の家に遊びにいったから、家には次女とぼくだけがいることになった晩。夕食の支度ができたから、先に二人で食べることにした。脂ののったサンマの塩焼きとエリンギともやしのバター炒めと味噌汁とごはん。

次女の隣、いつもは妻の席で今日は食べることにする。サンマをむしってあげて背骨を抜き出して食べやすくしてやる。それだけやれば、あとは自分で食べることができる。成長したもんだ。

普段は食卓を賑やかにするリードオフマンの長女がいないから、静かである。

何を話そうか考えていたら、

「今日、一位になったよ」

彼女から話をしてきた。

今日の出来事を、親しい人に話す。何気ないことだけど、次女が聞かれもせずに自分からぼくにやったのは初めてのことだとおもう。とたんに次女が大人にみえてくる。大人になった次女と話すときも、きっと同じようなかんじだ。すごく感慨深い。

一位とは運動会の練習のかけっこのことだった。よっぽどうれしかったのだろう。そのあと、もう1回やったときは2位だったことも聞く。悔しそうである。

次女は白いごはんが好きだ。「おかわり」というから新しくよそってあげると、ホカホカなのをみて、「ねぇ、ほんとうに、米粒の中に神様って、いるの?」と聞いてくる。

「そう思って、一粒一粒大事にしようということだね」

「神様、熱くないのかな。」

「熱くても、大丈夫なんじゃないかな。神様だから」

「食べても、良いの?神様を。噛んでもいいのかな」

「神様、ありがとう。と思ってたべようね」

「お腹の中で、幸せにやってるかな」

「お腹の中、神様でいっぱいになるね」

彼女の顔は、実に真剣である。

「神様って願い事叶えてくれるんでしょ」

「いい願い事ならね。悪い願い事は、叶えてくれないよ」

「悪い願い事って、なに?」

「だれが悲しい思いをする願い事。」

ピントきたらしく、ウンウンと首を何回も立てにふる。

「願い事、なに?」

しばらく考えて、

「ハワイにパパと行くこと」

と返ってきた。

彼女はハワイをもちろん知らない。彼女が生まれる前、妻と0歳の長女、4歳長男は一度だけいったことがある。「また行きたい。連れてってくれ」とよく妻と長女が会話しているのが印象に残っているのだろう。ものすごくポジティブなイメージが植え付けられている。おそろしい。

「ハワイ、おばあちゃんとも行きたい」

と続く。

「じゃ、おじちゃんに行ってみたら?おじいちゃんが神様になって叶えてくれるかもよ」

明るい笑顔になったかとおもうと、「おじいちゃんは、魔法使いじゃありませんよ。棒もってないじゃん」と真顔で返ってくる。

いつのまにか願いを叶えてくれるのは魔法使い、とシンデレラのイメージが混入してきて、神様と魔法使いがごっちゃになっている。とはいえ、それをいちいち訂正するのも話の腰が折れるしやだな、と思いつつ、

「神様と魔法使いって、ちがうよ」

とつい口にしてしまう。

しばらく考えて、「神様って、顔、白いの?」と質問が飛んでくる。

たぶん、こないだみた野外舞台「世界の果てからこんにちは」に出てきた演者を神様だと思い込んだのだろう。

「白いのもいるね」

「ふぅん」

やっぱり話の腰を折ってしまったようでこの願い事の話は終わってしまった。

ご飯を食べおわったら、先に次女と二人でお風呂に入る。妻や長女、長男が帰宅した頃には、ご飯と風呂が終わっている。実にスムーズで、普段はなかなか過ごせない、次女と二人の幸せな時間だった。

シンデレラにせよ世界の果てからこんにちはにせよ、彼女の考えていることがなんとなくピンとくるのは、ぼくがそれだけ彼女と一緒に時間をすごし、彼女の頭の中がどうなっているかを追体験できるようになっているからだ。それに気づいてとてもうれしい。子どもと密度の濃い時間を過ごすとこういうご褒美があるのだね。やっててよかった。神様ありがとう。

参観日

「別に。」(長男)

朝、長男が学校行く前に「今日の参観日、父ちゃんも母ちゃんも行くぞ。うれしい?」と聞くと、ぶっきらぼうにこう返ってきて、そのまま家を出ていった。

これまでは素直に「うん」といっていたのにな。ついにこの日が来たか。4年生なら、それが自然だとおもうから、ショックではない。「別に、いかなくても大丈夫なん?」と「別に」返しをしたら、「うん」といままでと反対のところで「うん」を使う。

かといって、「来ないで」とは言わない。ぼくがいかに参観日に行くことを楽しみに、これまでも最優先にしてきたか、息子も十分分かっている。そういっても来るに決まっている、そう思っているに違いない。

実際に教室にいくと、先に入っていた自分の席の真後ろの妻に「父ちゃんは?」としきにりに気にしていたそうである。ぼくは廊下からみる。息子がぼくをみつけると、「おう」とちょっとだけ手をあげる。笑顔はない。

とはいえ、ぼくが位置を移動するとそのたびに「みつけたぞ」という顔をしてこっちをみてきたり、授業が終わったら笑顔で腕にしがみついてくるので、そこは前のままである。

廊下に自分の読んだ本を紹介する紙が掲示してあって、息子は「SEN」という探偵ものについて書いていた。相変わらず、クラスで一番字が汚い。レイアウトもガタガタ。文もそっけない。ぼくは小学校4年くらいから、それぞれの先生が学級だよりで書く手書きのフォントについて興味をもち始めた。好きなフォントを書く先生の字、今思うと教科書的なキレイな字よりも、自分のキャラクターにあった独自フォントを持った、クセのある書体に惹かれた。むかしの英字のタイプライターの日本語版のような、機械的な書体の先生がいて、それを真似しはじめた。そこから、活字でもいろんなフォントがあることが気になりだした。ぼくのデザインへの興味の芽生えは、カリグラフィーからであった。そういう変化が、彼にもやってきたりするのだろうか。まったくその兆しはない。

その後、妻と息子と3人で保育園に娘二人を迎えにいく。車にいてもいいものを、「中に入る」といって、園児だった頃のように走り回っている。

童心と少年の心が半々で入り混じっているのが彼の現在。来年からは長女が加わるし、さすがに中学校になったら行かないだろうから、彼だけを見る参観日もあと数回しかない。 

高い壁

息子は暇さえあれば「将棋やろう」というようになった。面白くなってきたのかもしれない。5回やったら1回くらい負けるようになった。

今日は義父に挑戦してみたら?とおじいちゃんの家に預けてみる。飛車角落ちでもまだ勝てなかった相手。そろそろいけるかとおもったら、まだまだ歯が立たなかったそうだ。まだ壁は高い。

妻にバリカンで髪をきってもらって、オカッパ少年になった。わりと似合う。

結婚について

我が家に来客があった。このブログを読んでぼくに興味を持ってくれたのだという。だから会うのは2度目だけど、ぼくのことをだいぶ知っている。職場の同僚よりも知っている。不思議な気分。そしてウマが合う。この歳で友人ができてうれしいし、何よりこの地味な生活を励ましてくれて勇気が湧く。ありがたい限りである。

さてその友人から「結婚って、何ですか」という質問をされる。今度結婚式でスピーチを頼まれたから考えているとかで。

いざストレートに聞かれたら、うまく言葉にならなくて、結局帰る時間になってもこたえられなかった。友人たちを見送ってから、少し時間があったので芝刈りをした。芝を刈りながら、結婚って何かを考える。

 

なんとなく、考えがまとまってくる。

「結婚とは、絶対的な世界へ没入する入口」なのだと思う。

 

この国は、当たり前だけど、結婚相手は自由に選べるが、一人としかできない。相手は自由。だけど人数は不自由。こう決められている。

この「一人」というのはいろいろ自由化されるこのご時世で、珍しい拘束だ。そしてあまり「一人じゃ足りない、増やせ」とは言われない。自然と社会に受け入れられているルール。(話はそれるけど、過疎に悩む地方はいずれ特区となって規制緩和して、多妻多夫制に切り替わるというのも時々想像したりする。先進国が村社会に戻った世界。でもそれは今回別の話。)

一人としか結婚できないとなると、結婚する相手を決めてからは、比較していいことはないのである。選ぶまではいろいろ比較したりもするだろう。つまり相対的な世界にいる。でも、決めたらもう「この人しかいない」という絶対的な世界に飛び込むほうがいいのである。

人類はこれまで、頑張っていろんな自由を獲得して、人生を自分の意志で決めることができるようになったわけだけど、伴って、人生の選択肢が増えた。

そして、選ぶことに悩むようになった。日々の買い物から進学先、就職に至るまで、人生は大なり小なり選ぶことの連続だ。そのとき有効なのは複数の選択肢を考えて、比較するという方法。比べてある判断をして、どれにするか決定する。ときどき、判断に失敗するときもある。そのときは次のとき、変えればよい。その繰り返し。

てなわけで、いつしか相対的な世界に没入している。その判断が合理的であるほど、オトナになった気になる。「絶対コレ」と決め打ちするのは子どもの方が得意だから。

 

しかしである。そんなオトナになってから、絶対的な判断が求められる場面、それが結婚だ。

なぜなら、結婚して子どもができたとしたら、子どもは正真正銘の絶対的な存在だから。当たり前だけど、我が子は、比較する存在ではない。子どもは絶対的な世界の中にいる。そして、子どもにとっても。

ぼくは親になって、この絶対的な世界で生きる幸福感を知った。「子どもが喜ぶか」、「子どもにとっていい影響があるか。」そればっかり。日々の判断がシンプルになって、あれこれ悩むことが減った。自分の人生より子どもの人生の方が大事に思えるようになって、ぼくが死んでからの世の中のことまで真剣に考えるようになったし、エゴじゃなくなった。一日一日を大事にするけど、目先の利益はどうでもよくなった。いい意識改革だった思う。ネジは緩めた方がいいこともある。

そして、まず妻を愛することだ。父の存在など儚い。妻を大事にしないと、愛はうまく循環しないように思う。

自由に生きることが求められて、何が本当にいいのかわからない。そんなふわふわとした現代社会での、絶対的で、心強い拠り所。そこへの扉を開けることが結婚なのだと思う。

親の味

昨晩は親子丼をつくった。息子はイェーイと喜ぶ、のを知っているので、つくった。

つくっても、まだ友だちの家にいって帰ってこない。お盆の上でどんどん冷めていっている。

帰ってきた頃にはもう冷えていた。妻が「遅い」とたしなめているから、ぼくは何もいわないことにする。

やっと食べ始め、「おいしいおいしい」といってくれるが、「出来たてはもっと美味しいんだぞ」と言いたかったが飲み込む。

妻が「家を出て、実家に帰ってきたとき『父ちゃんの親子丼、食べたい』というのかな」といっている。もしそうなったら喜んでつくるだろうな。ちなみに肉じゃがも同じくらいそうなる候補だと思っている。

ぼくも親子丼が好きなので、おそらく家を出ても、その先でよく食べるんだろう。なか卯に行く姿を想像してみる。自炊できるように家を出る前にレシピを教えてやれたらいいな。

 

破壊力

寝る前、はなれで一人横になってると長女がやってきて「踊ってるよ」と教えてくれる。

中庭を隔てたむこうの母屋の和室をみると、しまっていたブラインドかまるで舞台の緞帳のように上がり、その先で次女が踊っている。

ボンボンを両手にもっていて、元気に振り回している。いま練習中の運動会の踊りを曲に合わせて妻に見せている。

なんともその姿が愛らしくて、母屋に戻る。ももクロの曲だとわかる。片手を伸ばしたり、クルっと回ったり、ジャンプしたり。顔ははにかんでいる。

キュン死にとはこの気持ちのためにある言葉だ。疲れとかいやなことととか全て吹っ飛ばして元気になる破壊力。スカッと気が晴れる。

どんなエンタメよりも、我が子のたどたとしい踊りが勝るのだ。あんな小さくな赤ん坊だった子に、頼もしさを感じるという感動。親冥利につきる瞬間。

終わって妻もぼくも抱きしめたら鼻の下を伸ばすいつもの嬉しそうな顔をしていた。

泣きそうになったが、それは本番までとっておこうと我慢する。

ちなみにボンボンは明日妻が職場でつかうためで、長女は次女が踊っているときもビニールテープをひたすら割いて手伝っていた。長女は本番見てねと余裕のかんじ。長男も本を読んでいるが、チラチラみている。「本番、おまえも見たくなったろ」というと「うん」と素直な返事。

本番は緊張して表情が固くなってるのだろうか。今日みたいに笑顔で踊ってくれたらいいな。