結婚について

我が家に来客があった。このブログを読んでぼくに興味を持ってくれたのだという。だから会うのは2度目だけど、ぼくのことをだいぶ知っている。職場の同僚よりも知っている。不思議な気分。そしてウマが合う。この歳で友人ができてうれしいし、何よりこの地味な生活を励ましてくれて勇気が湧く。ありがたい限りである。

さてその友人から「結婚って、何ですか」という質問をされる。今度結婚式でスピーチを頼まれたから考えているとかで。

いざストレートに聞かれたら、うまく言葉にならなくて、結局帰る時間になってもこたえられなかった。友人たちを見送ってから、少し時間があったので芝刈りをした。芝を刈りながら、結婚って何かを考える。

 

なんとなく、考えがまとまってくる。

「結婚とは、絶対的な世界へ没入する入口」なのだと思う。

 

この国は、当たり前だけど、結婚相手は自由に選べるが、一人としかできない。相手は自由。だけど人数は不自由。こう決められている。

この「一人」というのはいろいろ自由化されるこのご時世で、珍しい拘束だ。そしてあまり「一人じゃ足りない、増やせ」とは言われない。自然と社会に受け入れられているルール。(話はそれるけど、過疎に悩む地方はいずれ特区となって規制緩和して、多妻多夫制に切り替わるというのも時々想像したりする。先進国が村社会に戻った世界。でもそれは今回別の話。)

一人としか結婚できないとなると、結婚する相手を決めてからは、比較していいことはないのである。選ぶまではいろいろ比較したりもするだろう。つまり相対的な世界にいる。でも、決めたらもう「この人しかいない」という絶対的な世界に飛び込むほうがいいのである。

人類はこれまで、頑張っていろんな自由を獲得して、人生を自分の意志で決めることができるようになったわけだけど、伴って、人生の選択肢が増えた。

そして、選ぶことに悩むようになった。日々の買い物から進学先、就職に至るまで、人生は大なり小なり選ぶことの連続だ。そのとき有効なのは複数の選択肢を考えて、比較するという方法。比べてある判断をして、どれにするか決定する。ときどき、判断に失敗するときもある。そのときは次のとき、変えればよい。その繰り返し。

てなわけで、いつしか相対的な世界に没入している。その判断が合理的であるほど、オトナになった気になる。「絶対コレ」と決め打ちするのは子どもの方が得意だから。

 

しかしである。そんなオトナになってから、絶対的な判断が求められる場面、それが結婚だ。

なぜなら、結婚して子どもができたとしたら、子どもは正真正銘の絶対的な存在だから。当たり前だけど、我が子は、比較する存在ではない。子どもは絶対的な世界の中にいる。そして、子どもにとっても。

ぼくは親になって、この絶対的な世界で生きる幸福感を知った。「子どもが喜ぶか」、「子どもにとっていい影響があるか。」そればっかり。日々の判断がシンプルになって、あれこれ悩むことが減った。自分の人生より子どもの人生の方が大事に思えるようになって、ぼくが死んでからの世の中のことまで真剣に考えるようになったし、エゴじゃなくなった。一日一日を大事にするけど、目先の利益はどうでもよくなった。いい意識改革だった思う。ネジは緩めた方がいいこともある。

そして、まず妻を愛することだ。父の存在など儚い。妻を大事にしないと、愛はうまく循環しないように思う。

自由に生きることが求められて、何が本当にいいのかわからない。そんなふわふわとした現代社会での、絶対的で、心強い拠り所。そこへの扉を開けることが結婚なのだと思う。