別れ

長女にとって二つの別れがあった。

一つは教育実習にきている若い先生。「2週間お世話になりました」とお迎えのときに挨拶される。そういえば、前日から「明日で最後なんだって」と長女が寂しそうにしていた。

長女が教室から駆け寄ってきて、「先生にお手紙渡したい」という。もう涙目になっている。これから息子をお迎えにいって二人を公文につれていって買い物もいかなきゃいけないという分単位のスケジュールなのだけど、そういう気持ちは大事にしてほしいので、家に一度戻って手紙を書いて、また持ってくることにする。

家について、たどたどしい字で一生懸命書いている。お気に入りの封筒に入れる。

再度保育園にいって、ぼくが車を停めている間に、彼女ひとりで先生に渡しに行く。

戻ってきてどうだったか訊くと「ギューしてもらった」そうだ。さっきに比べたら気持ちが落ちついたようだが、寂しそうである。

その夜、公文から帰ってきて家にいても、たびたび「もう会えない」とシクシク泣いている。「また会えるよ」はわからないから言えない。「また、ほんとの先生になったらこの保育園に来るかもね」くらいにする。それなら卒園した後でも、次女のお迎えのときとかに会えるかもしれない。「先生、とってもうれしかったとおもうよ。」と褒める。

 

もう一つの別れは我が家の車、ファンカーゴ。義理の両親から譲り受けたもので、いよいよ勇退のときがきた。新しいクルマになるから子どもたちは喜ぶかと思ったが、引き渡しの日、長女も長男もさみしそうだ。長男は「テニスにいくとき、だいたいこの車やったよね」と懐かしそうにいう。長女は車屋でもう新しいクルマにのって出発するよというときも、「ファンカーゴーちゃん」といってボンネットのところにしがみついて離れようとしない。むりやり引き剥がすように抱っこするが、大きな声で泣きさけぶ。無理やり義理の両親の車に入れる。家についたら落ち着いていたけど、車中はしばらく涙が止まらなかったらしい。

妻とここまでセンチメンタルに感情移入するのはぼくの母譲りだろうね、と話す。ぼくの母は試合は全くみていないのに、高校野球で甲子園球児が校歌を歌ってるシーンだけをみて泣いていた。すぐに入れる人だった。

そう思うととても愛おしくなって長女をなるべく抱きしめながら慰める。

「だって、わたしが最初に乗った車だもん。」

数日経っても、道路に走る車をみながら、「ファンカーゴちゃんは今どこで走っているかな」とときどき呟いている。

バナナ

長女が仕入れてきた情報によると、インドネシア語では、バナナは「ピーサン」というらしい。かわいい。かわいすぎる。Pさん。Mr.P。

長女はどうしてその話になったのだろう。給食で出たのかな。我が家は我が子3人とも毎日ピーサン食べる。すっかりバナナと呼ぶことがへった。

こないだはそのインドネシアの友だちから手紙をもらってきた。アルファベトで書いてあるけど、どうやらインドネシア語のようだ。きれいな字だから、ママが書いたのだろう。わからない。「もし英語でかいてくれたら、通訳して伝えるよ」と返事する。

内容はわからないけど、友だちどおし手紙を渡すというのは一歩友情が深まったしるし。いいね。

反抗期

息子について、学童でおばあちゃんが「そろそろ、反抗期の時期終わる頃なんですが、まだまだありますねー」といわれたらしい。

たしかにああ言えばこういうようになったし、自分で納得しないと、はいそうですかと従わないようになった。意志と判断力の芽生え、成長である。

ただ、ぼくにはまだ素直な息子で聞き分けはいいと思っていて、こういうときは危険である。父には遠慮してる、あるいは父の前では猫をかぶり適当にいなして、外では困ったちゃんになってるのかもしれない。ぼくがそうだった。ちなみに第三次の思春期反抗期は逆で、外で猫をかぶり、家で暴れた。

そこで、ぼくからは「もっと母ちゃんに甘えていいんだぞ」とアドバイス

ママに甘えるのは、長女と次女がいるからなかなか息子にそのチャンスは最近ないから気になっていた。年齢的にも照れるだろう。

でも、今のうちに思いっきり甘えるのがあとあと、効いてくると思う。

キッチリ大学

大雑把にいうと、人間にはふたつのスタイルがあって、キッチリとザックリという二つがある。我が家ではキッチリ大学かザックリ大学と呼んでいる。我が家の場合、ぼくは完全にザックリ大学である。家事をやるようになって、それこそ多少はキッチリの授業もとるようになったが、キッチリ大学に入学しようものなら最下位である。

昨日も完璧に家事をすべてこなしたと思いきや、息子に代わりにやっといてあげると名乗り出た学童のリュックサックを学童に預けておくという作業を完全にしわすれた。おかげで息子は学童についても着替えがなく、いたく困ったそうだ。迎えにいったとき、「おまえ、なんで着替えてないんや」といったら「父ちゃんが忘れたんやろ」と返り討ちになった始末。

一昨日も完璧にやったと思ったら、何かをしわすれて悔しい思いをした。何をし忘れたかも忘れた。そういう男が今は仕事では事務屋をやるはめになっているから本人も周囲も日々情けなくて苦しくて、窒息して死にそうになっている。子どもたちにはこういう根本的なミスマッチはしてほしくない。ザックリ大学は社会では役に立つ環境が限られている。特に日本で、若手の時代は。

妻はどちらかというと、キッチリ大学のようである。でも、ぼくと暮らすことを許容できているのだから、そこまでネジは固く締まっていない。

息子は完全にぼくの血をそのまま引き継いでいる。字が汚い分、ぼくよりもひどいかもしれない。「だいたい」の世界に生きるのが心地よさそうだ。だから手に取るように考えていることがわかるし、馬があう。

長女もキッチリと思いきや、わりとザックリしている。料理のとき、野菜の大胆な切り方や鍋への入れ方をみたらそうだ。部屋を片付けるときも「だいたい」だ。

そこへきて次女である。だれの血か疑うくらい、彼女はキッチリ系のようだ。例えば、昨日デラウエアを食べていたとき、食べたあとの皮を一つ一つ、お皿に円環状に並べはじめた。「そのほうが、きれいかなと思って。」結局はたくさん食べるから、皿は埋め尽くされて山盛りになるのだけど、途中までは確かに綺麗だった。

お風呂にはいるときも、脱いだ服は端を揃えてきちっとたたむ。洗濯カゴにポーン、ではない。

お風呂の中でも、泡がでるボディソープ、自分で洗ってみなといったら、泡をだし、それを点々と身体に紋のように少しずつつけはじめた。どこかの民族のように白い泡の斑点が半身を埋め尽くしている。妙な迫力がある。

「そのほうが、きれいかなとおもって。」

きれいだけど、身体はきれいにならないね、といったらバーっと躊躇なくアワアワをつぶして洗い流していた。

保育園では連絡帳を並べる係になったときも、キチッと同じ幅で並んだ列にして先生が感嘆の声をあげたようだ。

誰に似るでもなく、この我が家からこういう気質の子が出るのは不思議だけど、面白いので見守ることにする。周囲から「きれい」と言われるのも嬉しいのだろう。自分とは違った育ち方をするのも、これまた楽しみなのである。

次の「そのほうがきれいかなと思って」がまた聞きたい。

スラマパギ

保育園のクラスにインドネシアからのお友達が加わったので、長女がインドネシア語に興味をもっている。「スラマバギ(=おはよう)」、「タリマカシ(=ありがとう)」からはじまって、最近は「ジャン(=時計)」、「エナ(=美味しい)」など。ちゃんと覚えてるか、テストもしてくる。

インドネシア語で話しかけると、その友だちはニコッとしたり、ギュってしてくるから楽しいようである。すばらしいね。

長女から「エナ」ときいて、古い記憶がファーっと広がった。そういえば大学時代に友人とインドネシアからの留学生の友達と一緒にバリに遊びにいったことがあって、そのときに「エナ」は覚えたのだった。「エナ、スカリ(=とても、美味しい)」は友人が良く連発していた。

お風呂でその話をしたら、「スカリ(=とても)」をつける順序がどうして日本語と逆なのか、長女はそこが気になったようだ。日本語では「とても、美味しい」なのに、何で「おいしい、とても」の順番なのだと。何がいいたいか、先に知りたい人たちなのかな、など話すけど、依然不思議そうだった。

日本語も、言葉は誰が決めたのかも最近よく聞いてくる。「りんご」は誰が決めたのか。なんでか。ずっと昔の人としか答えられないのはつまらないので、語源辞典みたいなものを借りてみようかな。

昨日はお迎えのとき、先生から「パパちょっと助けて」と言われて、そのインドネシアの友だちのママから電話がかかってきたから代わりに出てあげた。先生方も海外からの友だちを受け入れようとがんばって、奮闘しはじめている。自然に触れて、海外の言語に触れて、自分から興味を持つ。とてもいいことだと思う。

快挙

今週は月曜日から金曜日まで全部夕食をつくった。子どもたちのお風呂、歯磨き、寝かしつけ、洗濯、掃除、布団干しもした。芝刈りはできなかったな。豚のしょうが焼き、鯛の煮付け、豚肉と大根の煮物、ポトフ、ズッキーニのチーズ焼き、ブリカマの塩焼き、などなど。トマトやトウモロコシにも助けられた。

この生活をはじめるまで、はずかしながら家事は妻に任せっきりだった。やったとしても、どこかで「やってあげる」という意識があった。だから自分から進んでしようともしなかった。やっても、妙に疲れた。

人間変わるものだ。いまはやらないと自分の気がすまない。自分ごとになった。疲れることは疲れるけど、やらないほうが精神衛生上よくない。何より、気持ちがいいからやるのである。

家事は手を動かせば動かすほど、みるみる目に見えて成果が出るから面白い。努力は報われる世界。心もスッキリになる。もっと早く気付けばよかった。

手を動かしているときは頭も動く。これも大きい。ひとりでゆっくり物思いにふけるから、頭もスッキリする。

でもあっという間に時間が経ってしまう。一日が早い。この時の流れがもっとゆっくりになれば、もっと最高なのにな。

家事は空っぽに向かっている。シンクにしたって洗濯カゴにしても冷蔵庫、ゴミ箱にしても、空っぽにするために動いている。生きていると、空っぽの穴にそれぞれまた自然と溜まってゆく。それをまた、空っぽにひたすらする。その繰り返し。

空っぽにすると、その分入ってくる。頭も詰め込むのが目的ではなく、空っぽにすることを目的にしたら、逆に外からいろいろ入って来ていいかんじなんじゃないかな。家事をやっているときに頭はそんな感じだ。そういえばミスチルの櫻井さんもいい歌詞や音楽が「降ってくる」のは炊事洗濯をしているときだと言ってたな。いわば、家事をやって億万長者になっているわけだ。ぼくの場合は音楽はもちろん、金目のものは何も降ってこない。ただそれだけの違い。空っぽにしてるのは同じなのである、きっと。

色即是空は好きな言葉だ。

何を仕事にするか2

子どもたちへ。

何を仕事にするか、というのを以前、香山先生の本を引用しながら書きました。そして、いま佐伯先生の本『「わかる」ということの意味』を読んで、さらに考えが深まった気がするので、それを伝えます。

「好きなことを仕事にする」という視点は大事です。それをできているオトナは100人に1人いるかないか、くらいだとおもいます。そうできただけでも大成功です。だって、その場合「休み」が「仕事を忘れるための時間」である必要がないのです。好きなことなのだから、休みの日も考えるでしょうし、それが苦じゃないのです。とはいえ、身体や頭を休めたり、いい仕事をするためにも必要ですから休みはとってね。

そして、もしも残りの99人になったからといって、ガッカリする必要もありません。どんな仕事でも、前向きな気持ちを忘れなければ、やりがいをみつけることはできると思います。その仕事を、あとから好きになることもできるのです。

では、そのときの「やりがい」とは何か。そのときはもう一つの視点、「その仕事をしている『自分』が好きか」というのが有効なんじゃないか、と気づきました。それが、佐伯先生がいう「双原因性感覚」というやつだと解釈しています。仕事をする自分がいて、社会がある。そして、社会の視点から、自分を眺めてみる。その仕事自体が好きかどうかという方向だけではなく、働いて、社会に貢献できているか。その自分が好きと思えるくらい熱中できているか。そういう双方向の視点です。

例えば、誰かから頼りにされて「ありがとう」と言われたり、自分が仕事をすることで社会が少し良くなったと思えたり。それを感じられたら、それが「やりがい」になって、もっと仕事を好きになるだろうし、自分も生き生きできるはずです。

その視点で眺めて、自分を好きになれない場合だって、時にはあるでしょう。自分の正義感に反していることを仕事だと割り切ってやっていたり、上司や同僚と肌が合わなくて会社に行くことが嫌になってしまったり。前向きになれないことも、人間ですから、そりゃあります。

そんなときは、どうすればいいか。むずかしいな。もしもきみたちがそれで悩んでいたら、どうアドバイスするかな。勝手にそれこそ親の出番だと思って考えてみる。

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・一度日々の仕事と距離をおけ:休んでじっくり考える。自分が必要とされ、または自分がその仕事を必要としているかを見極めたり。そもそも、その仕事は、いつの時代から、なぜ存在しているのか、スケールを大きくして考えてみたり。悩んでいるときは視野が狭くなるもの。想像を思いっきり広げて、普段見えてない世界を見たり、いろいろ飛び出してみましょう。

・お金のことは、考えない:仕事の内容で考えましょう。判断がにぶります。お金はあとからついてくる。目的にしない。同様に、ステータスや世間体、みたいなものも一度横におくといいね、そういうのは世の中の流れで変わるから。

・信頼できる仲間に相談する:腹をわって話せる仕事仲間や友人に打ち明ける。そういう人の意見は大切。謙虚に耳を傾ける。

・直感を大事にする:頭であれこれ考えることは限界があって、考えた末に、最後は直感でどう思っているか、を信じるというのもいいと思う。思考は相対的な比較で考えがちだけど、直感は絶対的な評価に近いんだろね。

・自分が「壊れる」と思ったら、逃げていい:まだきみたちの小さい頃しかしらないけど、きみたちは、信頼できる大人になるように、まっすぐ育っているとパパは自信を持って言えます。親として、責任を持ってそうなるように育てるつもりです。ぜひ、その「まっすぐさ」は大事にしてほしい。それが歪められる環境にいると感じたら、とっとと逃げなさい。そのまっすぐさが生きる環境は、必ず他にあります。

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そんなところかな。また思いついたら書きます。

ちなみに、上の視点って、実際に働いてみないとわからないじゃないか、と疑問に思うことでしょう。そのとおりです。いろいろやってみるしかない。

とはいえ、これからは、会社が人を選ぶのではなく、よくもわるくも、基本的にきみたちが仕事を選べる時代になります。つまり選択肢は多いし、たくさんの誘惑にもかられるでしょう。ちなみにAIが仕事を奪う、が本当だとは思えない。むしろAIのための環境を整えて、セットアップする仕事が増えて、人間は忙しくなるのではないかとパパは心配しています。ケインズが「孫たちの経済可能性」で将来は余暇が増えると予想して外れた、あの再来です。日々の時間がテクノロジーによってどんどん切断されて細切れになって、皿回しの皿はどんどん増える。その傾向が今後も拍車がかかっていくでしょう。それは精神的にはどんどん余裕がなくなり、追い詰められる環境なわけで、自分が時間とどうつきあうか、その適度な距離のとり方、その術を意識的に身に着けていかなきゃいけない。お金の使い方より大事になると思う。

暇にはならない。では仕事をしながら人生を楽しんで、豊かにするしかない。その前提で、ただ日々が目まぐるしくまわり、忙しくて疲弊する、きみたちがそんな波に飲まれないためにも、仕事を選択する上では、むしろその変化には鈍感であってほしいと思います。労働の形態や働き方は多少変わるでしょうが、人間が人間の助けを求めることは変わらないし、むしろ「人間だからできること」が純化して、気がつけば機械が誕生する前の、古代からある仕事はより輝き、残りつづけるはずです。そちらに目を向けてほしい。たとえば農家や漁師やコックのように食べることと直結するもの、シャーマンや僧侶のように祈ったり、人の悩みの拠り所になるもの、建築家や職人のように暮らしを豊かにする知恵と技術をもったもの、学者のように人間と世界の関係を深く考えるもの、ドクターのように生命と直結するもの、保安官や弁護士のように人間ならではのトラブルを解決するもの、または作家、歌手や芸人のように喜怒哀楽をもたらすもの。などなど。そんな世のため人のための、「人間くさい」仕事が、ますます新しい価値を帯びて見直されるでしょう。

時代がどんどん新しいものを追いかければかけるほど、時代を遡行するような波もその反作用としてかならず出てきます。どちらが自分の判断に落ち着きをもたらすか。それは後者に立脚することだとパパは思います。あれもこれも新たに必要だと欲望を掻き立て続ける波が前者だとしたら、何が本当に必要かを見極めていく、ダイエットのように無駄なものを削ぎ落とす波が後者だからです。時間の審判が下されている。時の流れを味方につけるというのはとても心強いのです。

いやむしろ、後者の視点を忘れては、前者の波に乗ったとしても、その質を追求できずに判断を誤りかねないから気をつけてね。その方がアドバイスとしてはリアリティがあるかな。技術進歩の波からは逃れることができないし、残念ながら不可逆なものだから。

どんな時代、どんな環境でも、人間は人間でしかないし、基本的に地球と社会がないと生きられない。そういうふうにできている。そして自分にはウソをつけない。地球と社会と人間としての自分のいい関係。そうシンプルに考えたら、きっと選択肢はそんなにはないはずです。

要はパパの大事な子どもたちなので、きみたち自身も自分の気持ち、香山先生の言葉を借りればそれが「内なる声」ということなのかな、それを大事にしてほしい。その方が人生を楽しめるし、やる仕事にも誇りが持てるはずです。何かいつもいってることと何も変わらない結論になってしまったね。そんなもんだ。