母の日記

ぼくの母の日記が階段の踊り場になぜか落ちていた。元の棚に戻そうと手にとる。その前に読みだしたら、しばしとまらなくなった。ぼくが小学校4年から6年にかけての3年間の日記で、母が40歳から42歳までのものだ。ちょうど今のぼくの年齢である。

 

当時のぼくの発言も丁寧に記述してある。覚えていないものばかり。勉強させたくて必死なのに、ぼくが全然集中しないこと。テレビと漫画、ファミコンに逃げていること。ウソをついてごまかしたり、ワガママなこと。片付けをしないこと。などなど。友だちの家に遊びにいって、約束の時間に帰ってこないこと。口汚く反抗すること。困り果て、注意する母としょっちゅうぶつかっている。

いま思えば、反抗、それ自体が甘えそのものだ。ピリピリ緊張する家庭で気を使い、学校でもいろんな子からよく殴られていたようでまた気を使い、いろんなストレスがあったのだろう。一人っ子ゆえに母の注目が自分だけにむけられ、窮屈で息苦しい。行きたくもない遠い街の塾にバスで行かされて、受験のためのスパルタ教育に押しつぶされそうになって、何度も「やめたい」と泣き言をいっている。それでも通い続けて、なんとか乗り越えていく過程も記録されている。よく発熱や喘息が発作し、塾や学校を休んでいる。

 

母が父からうけた暴力や精神的苦痛もつぶさに書いてあって、毎日のように追い込まれ、泣く母の不安定な精神状態が浮き彫りになり、つらくて心が潰れそうになる。毎日のように対立し、言い合い、暴れられ、家がむちゃくちゃになる。壮絶だ。具体的にはここに書くことがはばかられる、正気の沙汰ではないことばかりだ。

暗澹たる気持ちになるので読めたものではなのだが、母にとっては唯一のこの日記が誰にもいえない心を打ち明けられる精神安定剤だったのだろう。父も仕事上のストレスがあって、母が八つ当たりの生贄になっていたのが伝わってくる。母も家事に加えて塾の切り盛りを一人でやるからギリギリだった。我ながら壮絶な家庭で育ったものだ。

 

 

1991年3月13日。ぼく自身、吐露している。

ーーーふとんに入って(追っていくと)「わかった。死ねばらくーになるんだ。のんびーり出来るんだ」「ねむれないよ。悩みが多すぎて。」「原稿用紙八百枚分程の悩みだよ」「こんな家にうまれて不幸だと時々思う。フッさんのような家に住みたかった。」「なんでこんなイヤなことばかりあるんだろう、この家は」etc.

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ぼくの誕生日はかろうじて明るい記述になっていて救われる。たまに褒めてくれている。ぼくのことは「よっちゃん」または「Y」と書いている。

ーーー①よっちゃんのアドバイスは適切だ。「ぼくはお母さんのそういう点がやだな。一回買ったら買ったで、決めちゃえばいいのに」←通販のブラウスを見て返品しようかと迷っているママをみて。

②ママ「このアザレア、きれいでしょ。ほら、こんなにきれいな色しているじゃない。」

Y「うん。でもぼく、この黄色のカバーの色がイヤなんだよね。これとっちゃった方がいいよ」

なるほど、薄ピンクのアザレアに黄色とピンクの包み紙で、全くお互いに殺し合っているから、きれいさが半減しているとママも思っていたのよ。

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ほかにも、6年生のとき、母の誕生日に祖父と一緒に誕生日プレゼントを買いにいって、財布をあげた日。いたく喜んでくれている。あの財布は長いこと使ってくれていた。ぼくが盾になり、父から体調を崩した母が家事をしないでいいようにかばって、家事をこなした日。「お母さん、お父さんが家にいないときに、ちゃんと寝なよ」と声をかけた日。

 

1991年4月3日。

ーーー夜、勉強終えて帰る車中。しんみりと

「お母さんが自殺したニュースを言っていたけど、お母さんはぼくが行きている間、絶対に絶対に死んじゃだめだよ。「死ぬ」とかも言わないでよ。それから、この前みたいに死んだマネもしないでよ。脳死と間違えちゃうんだよね。あの興奮してやけになってへんな声で叫んだり大声出したりするのもやめてね」

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別の日。まだ暗いなか、懐中電灯を2つぶら下げて自転車で新聞配達に出掛け、無事帰ってきますようにと祈っている。母は最初、新聞配達をやることを最初は猛反対だったが、祖父母が褒めてくれたりで支援する気になったらしい。ただ、結局ぼくだけではやりきれず、しばしば母の力を借りることになる。実に情けない。

 

ーーー精神的にはバラエティに富んだ子だと思う。

(中略)

よっちゃんはエリートコースはムリかもしれないが、一筋縄ではすまぬ個性の持主であることは確かだ。S100点、M95、漢字いつも100。悪い頭ではないんだな。

(中略)

一日も親の手を借りずに風雪の中を一人で配達を全うし、続けていれば、どんんあに人間的にたくましくなったことかと、遺憾には強く思う。受験、エリートに巻き込み父親と同じ、怒りっぽい人間へと歪めていこうとしているのだろうか。エリートでなくても創造的に、社会的に人間的交際術を身につけつつ、今現在のよっちゃんの夢を実現させるー私の日本中にひびきわたる塾にすることーそういう芽が伸びて伸ばしていくことができるのではなかろうか。「勉強」の為に、どれ程親子の間に亀裂が生じていることやら。

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ある日。「この1週間は布団で寝ていない」と母。

たしかに、ぼくの記憶でも母は布団で寝ていない。お茶の間で倒れたように寝ていた姿ばかりが思い出される。3時間くらいしか寝てなかった。家事、育児、仕事、近所付き合い。あのときの無理が、きっと彼女の心と身体を蝕むことになる。だれが読んでも、不幸な結婚だと思うだろう。ぼくが泣いて離婚を止めてしまったあの日が悔やまれる。自分が生まれなければ、母はもっと幸せな人生を送れたんじゃないか。親孝行できなかった分、ぼくはこの十字架は背負いつづけなくてはいけない。

 

彼女は日記を続けた。我が子のことを記録すること。ぼくもいまこうして同じことをしている。子どもたちにとって、この期間の記憶なんて大人になれば表から消えゆくものばかりだ。彼らがいつか大人になってもし読み返したとき、自分を、家族を振り返り、何かのヒントになってくれたらうれしい。ぼくのような否定したい過去をもたずに、人生を肯定しながら生きてほしい。母の日記は辛い。それでも敬意と感謝の気持ちが湧いてくる。形見であり、宝物だ。

 

奇しくも息子の小学校がもう終わるタイミングで家の目のつくところにひょいと顔を出した日記。息子のいまと照らしながら読む。普段彼に注意していることが、そのままぼくの小さい頃である。

「あなた、できてなかったでしょ。」

母が仕掛けたように思えてならない。