読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

次女とのかけひき、主にサモナイト構文

次女はずいぶん言葉がわかり、日進月歩で話せるようになっている。「これ、もっとちょうだい」、「これ、ママの、よ」、「あっちいきたい」などなど。

 

ともなって、彼女がやりたいことと、こちらがさせたいことにズレがあるとき、交渉ができるようになった。

休みの日は保育園まで徒歩でいく。大人の足だと徒歩10分ってところを、長女次女の足だと30分くらいかかる。さらに、車では気付かない、蝶やトンボ、咲いている花に立ち止まる。飛行機を見つけると「ひこうき、とんでる、みて」という。公園に水道の蛇口を見つけたら「のみたい」とダダをこねる。

次女はこないだまで抱っこしながらだったけど、最近はお姉ちゃんと同じことをしたいのか、自分の足で歩きたいという。がぜん遅い。長女と最初は手をつなぐけど、長女も自分のペースがあるので、そのうち、置いてきぼりになる。保育園に行くのが遅くなるのもあれなので、ぼくも早く行くよ〜といって、長女と次女の中間の、5メートルくらい、先に行く。それでも次女は、マイペースを崩さず、道路を這う虫に立ち止まり、腰を下ろして進む気がないときがある。

 

「行くよ」といっても「やだ」と首をふる。

「んじゃ、パパ、先行くよ。置いていくよ」

「やだ」

「んじゃ、一緒にいく?」

「パパ、抱っこ」

となって、パパは彼女のところまで後戻りし、次女を抱えて、10メートル先の長女に追いつく。終盤の135段ある階段でも、同じやりとりがある。階段の手前で、「降りる」とさわぎ、降ろす。自分で昇り始めるけど、カタツムリのように遅い。長女との差は開き、長女はやきもきする。暑い日は、踊り場で待ちぼうけをくらうので、長女もクズリ出す。下の次女を見下ろし、「抱っこしてあげようか」→「やだ」→「んじゃ、先行くよ」→長女とぼくがスタスタ登る→やばいときづき、「パパ、抱っこ」→パパ戻る。お風呂の出るときも、まだ遊んでいたいといい、同様のやりとりがある。

 

「やだ」という子どもを動かすとき、上のような大人は「さもないと構文」を駆使する。

子どものなかの、「いまやりたいこと>親がやれということ」という関係を、

「いまやりたいことをやりつづけたときに、おこるいやなこと<親がやれということ」という関係にすることで、子どものやりたいことを転覆させるというテクニック。

これが通用するには、子どもの側も先を予測するという知恵がなければならない。だいたい2歳くらいからか。だから、この交渉ができるようになること自体、すごい成長なのだけど、この「サモナイト構文」の乱用は、こどもにとってどんな影響があるのか、いまいちわからない。誰か研究してないかな。あまり使い過ぎると、よくない気がする。子どもの自由を、都合よく束縛してる罪悪感がある。

 

2歳児特有の朝令暮改もけっこう増えた。「梨、食べる?」→「やだ」→「んじゃ、パパ食べるね」→「たべる〜」→「食べるの?!」というやつ。

その「やだ」のワンクッション、要ります?ってこと、最近多い。ビジネスマン的にはムダなやりとりな気もしますが、このヤダヤダ時期では、すぐ覆すことになったとしても、自分の意志を示す、ってことも、大事なプロセスなんだろう。だから、付き合いますよ、3歳になれば、なくなるの知ってるし。

一方、朝、もろもろの準備を終え、さあ家でるぞ〜ってときに、「ウ◯チ出た」とくる、あれには困る。自分のなかではVゴールと呼んでいますが、あのタイミングでのゴールは、ショックがでかい。

慌ててトイレにいって、オムツを変える。新しいオムツを履かせようとするけど、「やだ」とここでもいう。なんで?となるけど、一度、便器にまたがりたい時期なのである。たとえ、何も出なくても。その工程、この慌ててるとき、要ります?とつい聞きたくなる。とはいえ、サモナイト構文も使えず、従ったほうが早く片がつく。結局、最短でも5分は献上することになる。

まったくもって、手を焼くぜ。でも、付き合いますよ。さもないと、やがて手を焼かなくなったとき、父ちゃんその成長をちゃんと実感できないから。