読書めも〜『絶望からの出発』

<『絶望からの出発』/曽野綾子PHP研究所/2012>


・私は戦争によって、死が、徹底して虚しいものであることを理解した。一度死に脅かされた経験を持つと、私の場合はもう自ら死のうとは思わなくなった。

・教育の根本の姿は自らを教育し続けることなのである。生きる限り、(完成しないことを知りつつ)自分を自分の理想とする方向へ一歩でも近づけるようにするという行為から、すべての教育は始るのである。親や教師たちはまず、自分より始めているか。

・子供に「テレビばかり見てはいけません」と言いながら自分はドラマ番組にしがみつき、子供には「本を読みなさい」と言いながら自分は週刊誌を2,3ページ読むだけでぱたりと眠ってしまうような生活をしてはいないか。

・己を教育しようとしない人に教育は不可能である、ということを私は信じている。しかし己を教育しても、更に教育はまちがいなくうまく行くとは限らない。私はこのようにして絶望的な出発点に立つのである。

・親が望むのは自由である。しかしこのような具体的な職業上の選択を親がする、ということはかなり大きな無理がある。

・平和な社会の中に生きたい、子供を生かしたい、と誰もが望む。しかし平和は−皮肉なことに、現代の人間たちのような不完全な精神状態では、必ずや力で保たれるものなのである。

・私は本当に何度、魂をとろかされるような夕映えを見たことだろう。それは完璧な一つの表現であった。いかなる文章もそれを表現することは不可能であった。(中略)私の考える人生の最終目標は、この夕焼を見る時の私のような生の実感を、できうる限り濃厚に味わいつくして死ぬことであった。濃厚というのは必ずしも「美しいもの」だけが含まれるわけではなかった。憎しみにしても淡いよりは、もしかすると濃いほうがいいかもしれない。何ごとにもよらず強烈に、というわけである。

・子供にとって根本的な望ましい条件の一つに、どのような状態にも耐え得る、ということがあげられるのではないか、と私は思ったのである。

・自分の望ましい環境の中でしか暮らせなくなった時、外界はその人間にとって恐怖に満ちた場所になり、彼は快適な自分の家から一歩も外へは出たくなくなるであろう。

・私は親たちの暮らしを見て、人間の生涯というものはどう考えてもろくなものではなさそうだ、と考えたのであった。そしてその時以来、私は何事にも一歩引き下がって不信の念をもって見られる癖がついたのである。

・そして私のようにその目的は一人でも生きられる子供を作ることだとすれば、親は子供が生まれた瞬間から、刻々と別離へ向かって歩き出す用意をしなければならない。

・池に落ちると危いと思ったら、一度池にわざと落とすのである。
・「外罰的」に、つまり、原因や責任はすべて外におしつける母親にふれていると、子供の精神構造は、そのような無責任な形からスタートすることはまちがいないように私は思う。

・第一に体罰の受け手は、まず言語的に未成熟な年齢でなければならない。第二に、体罰の与え手は感情的な報復を以てそれをしてはならない。(中略)子供が言葉によって事物の認識をできる年頃になったら、もう体罰は有害なだけで何の効果もない。

・限られた一回限りの自分の生の中から、どこ迄他人の生活・他者の心を類推し得るかが、どれだけ複雑により多くの人生を味わい得るか、ということになる。

・現代においてトクをするには、思考を停止させた方がいいのである。

・子供に対してはまず、褒めるところから始めるべきなのである。

・息子を褒めてやることは、つまり、彼が他人を褒めることのできる人間になるよう、習慣づけるためであった。

・子供を奮起させるつもりで、「あなたはダメねえ」とか「こんなこともできないようで、将来どうなると思っているのよ」などという母親の言い方ほど、子供を確実にダメにするものはない。

・この頃、時々、私は、「良き人生」というものは、どれだけ、広汎に、濃厚に、人間を理解し得たか、ということで測るべきではないかと思うことが多い。金も地位も名誉も、悪いことではない。しかしかりに大きすぎるそれらを得たとすると、いつか、それらは必ず、重荷となって、その人間を縛りつける。その点、人間を理解し得る能力とその実績とは、どれほど深く大きくても、決して本質的にその人の重荷になることはない。

・息子はやがてテレビのない生活が少しでも困るどころか、爽やかであることを知るようになった。彼は運動をし、夜になると勉強もいやなので時間をもてあましていた。自然に彼は本を読み始め、親たちと話をした。私たち親子はテレビがないから食事の間も喋りまくった。会話のない家庭などというものは、想像できなかった。

・どんなに眼のある正しい人間でも、勇気のない人は本当の教育者ではない。
・子供たちにとって大切なのは、前にも言ったことだが、不当なる評価を受けてをれに耐えられる精神力をつけることなのである。

・つまり人間は禁じられると欲しくなる、ということを忘れてはいけないのである。(中略)やらないと言われるとほしくなり、遊びなさい、勉強などしてはいけません、と言われると、本を読むことも少しはおもしろそうに思えてくるのである。

・真の緊張は必らず自然な弛緩をともなうものである。人間は緊張しっ放しということはない。むしろ弛緩の方法を賢く知る者だけが、本当に張りつめることができるのである。

・それは人間はひとからもらう立場にいる限り、決して満足することもなく、幸福にもなれない、という現実である。人間は病人であろうが、子供であろうが、老人であろうが、他人に与える立場になったとき、初めて充ち足りる。

・しかし、今日私たちが得ているものは、何の理由がなくても理不尽に、或る日瓦解する。すさまじい変化がやって来る恐れは常にある。教育の真の目的の一つは、この変化に耐えられる子供を作ることである。

・穴が掘れること、重い荷物が運べること、ひもがきっかり結べること、原始的状態で煮炊きできること。これらは人間が生きていく上で基本的な技術である。ちょうど私たちが歩いたり走ったり、かがんだり飛び上がったりする能力と、同じように必要なものである。

・火を起こすこと。泳ぐこと。自転車にのれること。他にもたくさんある。それらのこと、一つ一つは、実に下らない技能だと思われるかもしれない。しかし人間はそれらによって生かされる。身を守る。

・いったい自分が本当に望むもの<望まないもの>もわからなくて、上等の人間ができるものだろうか。他人には必要でも自分にはいらないもの、他人はいらないというが、自分にとっては断乎として必要なものの区別くらいつく時、初めて、この単純で素朴な選択の第一歩は、その人の思想や生き方を動かすもとの力になるのである。

・この回教徒はにとっては、とにかく彼なりの「人の道」が明らかだからである。どのような形でもいい。自分を持つ(保つ)ことなのである。その自分を素朴に子供にぶつけることなのである。もし教育が可能としたら、それが恐らく教育の、最初にして最後の方法であろうと思われる。