よくいわれることだけど

肉体には痛みがちゃんと、そこそこ人類共通で搭載されていて、そのおかげで傷つける限度、これ以上やっちゃいけない、みたいなのが社会であった。ヤンキーに人間味があって優しい人が多かった。痛みをちゃんと知っているから。人間の防衛や免疫のために育った感覚、のはず。

肉体的な、フィジカルなコミュニケーションが相対的に減っている。痛みが直感的にわからないから、傷つけるタガが外れている状態。そんな攻撃的な、悪気もなくやっても平気なコミュニケーションが蔓延しているのは、そのあたりにあるんじゃないか。ましてや、小さなころからデジタルでのコミュニケーションが当たり前で育つと、気づかずそのまま大人になっていく。デジタルに触れることが多い子どもに感じる不気味さは、そのあたりにありそうだ。オトナも。自戒。

さらに、面白がるための感度も、鈍っている気がする。次から次へと流れてくる情報をすばやくスクロールしつづける。その指を止められるのは、インパクトだけだ。そのインパクトを大きくしないと、読まれない。面白さや内容の深さはさておき。インパクトを最優先で求めるがあまり、残酷になることが正当化される。痛みがわからない世界で、残酷さだけが享受されるというスパイラル。これからの教育が教えなきゃいけないのは、そのあたりの問題提起なんじゃないか。