読書めも〜「わかる」ということの意味/佐伯 胖著

(すごい本に出会ってしまった。自分のもやもやと思っていた子どもの教育に対する考え、どうなんだろと思っていたのだけど、背中を押してくれるような内容で膝を打つ言葉の数々。25年前の本。教育って、この頃から何が進歩してるのだろうか。座右の書。)

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『「わかる」ということの意味』

佐伯 胖著/岩波書店/1983

 

・「子どもは常にわかろうとしている」本書が訴えたいことは、たったこれだけのことです。

・ヨコの「わかろうとする」というのは、いわば、「問題」があらかじめ定められているときに、「解き方」を考えている状態でしょう。「どうすれば解けるか?」、「正答は何だろう?」ということに関心が向かっているわけです。

・ところがタテの「わかろうとする」のは、一方では、「何が本当に知るべきことなのか?」、「どうしてそういうことを知っておくべきなのか」、などのような、私たちの社会や文化の中での、知識の価値や必要性を探っているのです。また、他方、「自分はどこまでわかっているのか?」とか、「自分には今何が必要か」をわかろうとする、つまり自分自身をわかろうとする、そういう営みでもあるわけです。

・「子どもは常にわかろうとしている」とはじめにいいましたのは、このような二つの異なったタテ方向と、その二つをつなげるべきヨコの方向へ、子どもは常に探求しているのだ、ということなのです。

・一番よく陥るあやまちは、ヨコだけに目を向けてしまうことです。その場合は、「子どもにわからせるべきこと」というものが外から与えられるわけです。子どもが自分でわかるべきことを選べるとか、選ばせるべきだという考えはありません。これこれのことを何が何でもわかってもらわなければならない、というしだいです。さらに、子ども自身がそれをわかろうとしているか否かは全くおかまいなしに、「きみたちはこれが必要なのだ」と押しつけてしまうのです。

・幼稚園のときからきびしい進学塾へ行かせ、はげしい特訓をさずけて、有名校へ入学させ、エリート・コースをたどらせれば「幸福」になってくれると信じ切っている親たちも、「わかろうとしている子ども」を見るのではなく、「わかっているべき子ども」を夢見て、それをむりにでもでっちあげようとしているにすぎないのです。

・もう一方の考え違いはこれとは全く逆です。「子どもにはひとりひとりの個性があるはず」という名目で、全く自然のままにしておくのがよいと考えてしまうことです。(中略)「あの子はああいう子なんだから仕方ない」として、とりたてて特別の働きかけはしないでよいと考えてしまうのも、子ども自身がさまざまな方向へ向けて「わかろうとしている」姿を見失っているのです。子どもの性格や育ち、環境のせいにして、教師の教育的責任を回避しようとしてしまうのです。

・もう一つ、私たちが陥りやすい考え違いについて指摘しておきましょう。それは、子どもを心から愛し、子どもを育てることに情熱を燃やしておられる方が陥る考え違いです。つまり、「子どもは無限の可能性をもっている」という考えです。子どもが思いがけずすばらしい能力を発揮したり、こちらが予想もしなかった面で才能を伸ばすことはよくあることです。どんな子どもにも、きっとどこか、すばらしい面が隠されているということは事実でしょう。しかし、私は「子どもが無限の可能性をもっている」ということばには、どこか危険な考え違いが潜んでいるように思えてなりません。
その考え違いというのは、「教える」ということへの過信です。どんな子どもに対しても、どんなことでも、熱心に、情熱を注ぎ込んで、根気よくはたらきかけさえすれば、結局は最後にこちらの期待するような人間に変えるはずだという信念です。子どもを愛しているようでいながら、結局のところ、子どもを自分の思い通りに変えたがっているにすぎないのです。

(中略)
その場合の「子ども」は、最初はひとりひとり違っていても、最後は画一的な「理想像」にはめ込まれているのです。私はそのような「教育熱心」のかげに潜む「教育者の思い上がり」こそ、大変危険なものだと思います。

・私は子どもが自分の可能性を自分で選んで、その子なりの可能性の中に花を開かせることに、最大の関心があるのです。「子どもは常にわかろうとしている」とは、こういうことなのです。

・私たち自身も未だ「わかっていない」存在とみなし、子どもたちも私たちも「わかろうとしている」ものと考え、「できること」から「わかること」へ向けて努力しながら、私たちの社会の文化をより価値のある、より人間的なものにしていこうという呼びかけが教育だというのです。

・「わかるということは大変なことなのだ」ということを正直に認めましょう。そして、私自身、わかったふりをかなぐり棄てて、何度も何度も「わかり直し」を経験していくべきだと思います。当然と思っていることを疑ってみたり、あらためて「やっぱりそうか!」と感動してみたり。私たち自身の、そのような「わかり直し」の渦に、子どもたちを巻き込んでいくのが本当の教育ではないでしょうか。「わかる」ということの感動、新鮮なおどろきを、私たち自身が再体験しておきたいと思うのです。

・のぞましい活動に、「生き生きと参加できる」能力というのは、単に、本人の性格(たとえば「外向性」とか「社交性」というような性格特性)に帰せられることではなく、本人の意志、そうありたいと願う心、そのように努めること、そして自分のもっている能力をすべて出しきって人びとと協力しあおうという試みなどに帰せられるべきことだと思います。
私たちは、「能力」ということばを、今まで余りにも狭い意味に解釈していたのではないでしょうか。本当に、「人間としての能力」というものは、このように、社会や文化にとって「のぞましい」とされることへ、自発的に生き生きと参加していけることにあるのではないかと思われるのです。

・考えてみて下さい。お母さんが「勉強しなさい」といったあと、ボクが勉強しはじめたら、ボクの「勉強する」という行為の原因は誰ですか?どう考えてもそれは「お母さん」ということになってしまうじゃないですか。(中略)だから、ボクはお母さんのいうことは聞かないのです。家庭の中で何か良いことをやろうと思っても、たとえそれが自分で本心から良いと思ってやることでも、結局のところ親の命令に従うということになりそうなのです。こちらが原因になってやれるのは、親が予想する以上に悪くみせることだけなのです。ほら、ざまあみろというぐらいのワルをやってのけたり、うまいこといいくるめてこづかいをせびってやるときだけ、ボクが原因となって結果を生み出しているのです。
ボクが「やる気のない子」になっているのは、ボクが本心では「外界の変化の原因になりたい」からです。(中略)でも、そういうところで示す「やる気」は、世間一般の人から見ると、やっかいで困った行動になってしまうのです。ボクもこれで良いとは思っていないのですが、ほかにやりようがないのです。

・ものごとが「できる」とか「できない」というのはどういうことでしょうか。
たとえば、「自分なりにできた」と思うことでも、他人の目からは「ちゃんとできてない」とされてしまいます。ほんとうは「できた」とか「できなかった」というのは、自分なりの実感であるはずです。ところが、やはり学校の授業の中では、自分なりの実感は無関係なのです。要するに、先生の目から見て、「できた」か「できなかった」のいずれかになってしまいます。

・ボクにとって、「できた」とか「できなかった」とかが、自分自身の変化の原因として感じられるためには、「できる」という状態を、ボク自身でえらび出し、自分でそれは向けて貢献しなければならないのですが、他人から勝手に「できること」を課せられてしまうのでは、いくら「できた」といっても、自分自身の変化の原因としての能力感(効力感)は得られません。

・家庭の中で、母親は子どもに語りかけることばのうち、一体どれほど多くが「○○しなさい」という強制になっていないかを考えてみてください。たとえ言葉ではいわなくとも、あれやこれや手だてを講じて、親は子どもにやらせたり、いわせたりしています。このことを反省してみることからはじめなければならないでしょう。

・私たちが、物事に熱中しているときの感覚というのは、自分が原因である(つまり、自分が対象にはたらきかけて変化を与えている)ということだけでなく、対象の変化そのものに導かれて、自分の中に変化が生じることも経験するのではないでしょうか。さらに没頭しつづけますと、対象そのものの世界が自分の中に入り込んできて支配し、自分は、対象の世界の必然性にひきずられてはたらきかけている、という心境になるでしょう。(中略)私は、このような対象の世界に没入したときの原因性感覚を、「双原因性感覚」と呼びたいのです。「相手が私を変える」、「私も相手を変える」という二つの原因性の感覚が一体となる実感です。(中略)この場合に、その「他者」というものが自己の心の中に入り、心の中に「他者」が有効的な協力者として住み込むのです。そして、自分の心の中でさまざまな活動をはじめ、自己の中の「自己」と友好的な対話をはじめるのです。要するに、自己の心の中に、一種の「世界」ないしは「社会」ができてしまい、その世界の中の自己や他者の活動が、協力的で建設的なものとして語りかけてくるのでしょう。
「何かがわかってきそうだ!」という心理状態は、正にこのような感覚の生まれているときです。

・先生は子どもを「ともにわかろうとする」パートナーとしてながめ、子どもは先生をやはり「ともにわかろうとする人」としてながめることが必要です。評価や教示活動は、すべてのこの「ともにわかろう」という共同作業の一環として行われているものでなければならないでしょう。

・子どもが何かを「できるようになる」ということは、特定の手続きを覚えてそれに習熟する(つまり、より早く、ムダなくムリなくムラなく反応できるようになる)ということだけではないのです。いつの間にか、もっとうまくやる方法はないか、なぜこのやり方でよいのかを心の中で吟味し、より深い納得を得ようとして、習熟のスピードを抑制してでも、ものごとの根拠を確かめるために原点にもどったり、あえて他の方法を試みたりするものだ、というのです。

・「わかる」ということは、
①具体的な問題が解決できること
②ものごとの根拠が示せること
③現実の社会・文化と結びつくこと
④関連する世界が広がること

・私たちは「できるようになる」ことを通して「わかる」活動と「わかること」と通して「できる」活動の両方のはたらきにより、ますますよく「できる・わかる」状態になっていくのではないでしょうか。(中略)私たちはうっかりすると、いつの間にか「単に『できる』だけ」か、「何となく『わかる』だけ」かのいずれかにすべてが分離されてしまうのです。

・世の中には一見おもしろくなくとも、少し根気よく取り組むと本当にすばらしい世界が見えてくる、ということは、むりにでも子どもに教えてあげるべきでしょう。

・考えてみますと、標準的な知識や技能の伝達を目的とし、子どもにそれを達成させ、評価するという学校の役割というのは、大きな工場の役割と似ています。標準製品を効率よく大量に生産し、その製品をもっていることを「常識」にしてしまうことによって、その製品への需要を高め、同じような製品をますます多く出まわらせることで生産を維持していくのですから。

・学校というものを、文化的実践への参加の呼びかけと、相互の「わかりあい」の場であると考えてみましょう。
・学校で学ばなければならないことは、
 ①自分が何を学ぶべきかが選択できること
 ②自分で自分の学びが正しいか否かを判断できること
 ③他人や社会と交渉をもち、社会や文化から新しい知識を証言できること
の三つのことが大切であることがわかります。

・「わかる」ということは、結局文化的実践に参加することなのです。参加するということは、本物の価値を認め、うけ入れ、そして自発的に価値の発見、創造、普及の活動に加わることです。
今日の学校では、このような「参加」が失われ、代わりに「伝達」が中心となっています。

・今日、家庭にも「文化への参加」が失われています。親と子が一緒になって、ものごとを「わかり直し」てみたり、「ほんとうのこと」を考えあったり、「すばらしいこと」に感動しあったりすることがなくなっているのです。
・小さなこと、目立たぬことの中の大切なことやすばらしいことを発見しあったり、なるほど確かにそうだった、本当にそうだったと叫び出したくなるような経験をもつことが家庭の中から失われています。


・「わかる」ということのすばらしさを、子どもに伝えようとする前に、まず私たち自身、体験してみようではありませんか。おたがいに、「なるほど、そうだったのか!」と感激したことを語り合い、「これは大切なことだ」と思ったら、熱をこめて語り合いましょう。自分たちもいかに「わかっていなかったか」を確かめあい、もう一度「わかり直す」よろこびを味わおうではありませんか。
私たちがそのように「わかろうとする心」を回復しはじめたならば、子どもたちも自然に寄ってきて、そのように活動に「参加」したがってくるにちがいありません。そのときは、否、そのときこそ、私たちは子どもたちの参加をよびかけ、一緒にわかろうとしようではありませんか。私はこれが一番自然な、そして結局のところ一番効果的な教育の真の姿だと信じて疑わないのです。