いい土

息子がガラスの向こうでテニスをしている。このあとは将棋にいく。サッカーもある。長女は妻とピアノ。週末は子どもたちの習い事で動いている。

 

習い事は何を習わせるべきか。

子どもを持つ身としては悩ましい。時間もお金も限りがある。

我が家の場合は、息子には玩具はほとんど買わないが、その分習い事はなるべくやらせてあげようという方針。テニス、水泳、サッカー、公文の国語をやっている。たまに将棋にいく。もうこれ以上は増やすことはできない。近所の友達もたくさん所属する地域のサッカーチームにも入りたいとか、新しく空手や野球やバスケをやりたいと言っても、時間もお金もないから、「やりたければどれかを減らせ」というただいま満席ですから空いたらご案内します状態。ちなみにご近所の一番人気、英語はやっていない。これからの時代はプログラミングも注目されるのだろう。

 

体験教室に連れていき、「やりたい?」と聞いたら「やりたい」というものから順に五月雨式に始めてきたので、全体的な計画はない。思えば、芸術系がないのがちょっと寂しい。字が汚いから、習字を習わせとけばよかった。とはいえ、本人は関心を示さないからそういうことなのだろう。やりたい気持ちがあって、楽しんでくれるのが一番だ。

 

何を習わせるといいか、を考えるとき、なんとなく、得意なことには包含関係があるような。

例えば、運動と勉強。当たり前だけど、勉強が得意だからといって、運動ができるとはいえない。むしろ勉強がムチャクチャできる人は、運動が苦手というケースのほうが多そうだ。一方、運動がメチャクチャできる人で、頭がいい人はたくさん知っている。運動系の方が学び方が総合的だし、勝負を通じて精神が鍛えられるからうんぬん、いろいろ理由は考えられそうだ。

例えば、数学と物理。数学がムチャクチャ得意で、物理が苦手という人はあまり聞かない。でも、物理が得意でも数学になると苦手な人はいる。さらに細かくいうと、算数だと、場合の数や整数が得意な子は図形でもグラフでもそつなくこなす気がする。国語と社会の関係も同じ傾向がありそうだ。

 

そんな「他の得意なことにも展開ができそうなもの」を「展開が広い習い事」ということにしてみる。芸術も身体と頭と心が連動してアウトプットを生み出す感じで展開が広そうだ。

 

ちなみに、同様な考えから、ぼくは子どもたちが日本で生まれ地方で育つ以上、英語より国語が先だ、と思っている。正確には、第一言語を鍛え抜くことが第二言語の習得より先という考え。言語は思考のベースとなるから、第一言語をおろそかにしてしまうと思考そのものが深まりにくい。第二言語が流暢にできる人の中には仕事ができない人もいるし、第二言語の習い事は展開が広いとはあまり思っていない。むしろ、習得させたければ習い事としてやるよりも、それを話せないと言葉が通じないという差し迫った状況、つまりは海外にまず放り込むのがいいんじゃないかしら。

 

外国語、例えば英語が何言ってるか分からないときって、英単語や文法がわからないというよりむしろ、「何をいう場面か、そもそもわからない」という文脈の理解ができていない場合がほとんど。逆に背景が理解できて「たぶんこういうこと、いうんだろうな」ということが予めわかっていれば、単語がわからなくたって、なんとなくわかるものだ。国際線の飛行機で離陸時のアナウンスで、”fasten”を知らなくたって、シートベルトを「締める」ってことなんだろうな、と思うように。てなわけで、背景を察知できる能力を先に鍛えてあげたい。 

 

さらに、よくいう「日本人は英語を話すのが苦手」も、ぼくもその一人だけど、かといって「どうしても伝えたいことがある」ことがないと始まらない。”I love you"と言うには、まず人を好きにならなくてはいけない。ちゃんと伝えるためには、どういうシチュエーションが効果的か吟味しなくはいけない。そのためには、まずいっぱい感じることができて、いっぱい考えることができることが大事。よくいわれるskillよりまずwill、というやつ。skillは分かりやすいけど、展開は広くないのだ。

 

閑話休題。せっかく習い事をさせるなら、できるだけ展開が広い方を優先させたい。世界が広がるから。早期から始めるなら、なおさら。

一方で、世間での人気の習い事をみてると、この展開の可能性の視点であまり語られてない。ぼくが勝手に言っているだけだし無理もないか。

こないだも家にチラシが入っていた。

名門校への進学率をウリにする幼稚園の体験教室の案内。ホニャララメソッドなる早期の教育カリキュラムで、保護者ウケする世間的に立派とされる職業になった、進学校に◯名進学などなどが声高に書いてある。教育熱心な親をターゲットにした田舎臭いメッセージ。

商売とはいえ、その訴求の仕方には強い違和感を感じる。一般の教育に先んじて子どもにスキルが植え付けられていくのは実にわかりやすい。けど、親の精神安定という効果以上に、本当に子どもの可能性を広げてくれるのだろうか。子どもは勉強を好きになるのだろうか。なったとしても、そのような分かりやすいが狭視野のヒエラルキーを植え付けられたら、どこかで人を単純に見上げたり、見下すようになったりして、考え方は狭くはならないのだろうか。結果、自らの展開先も限定してしまわないのだろうか。

他ならぬぼくが育った家庭が、悪気はなくてもそれに近い考えで、しかも両親が自営業で塾を経営していたものだから、妙な圧力もあり、思春期に悩み、苦しんで、反抗して、そして逃げた。結果、親不孝をした。いま自分が親になって、わかったこともある。親は親なりに、全力で自分を育ててくれたということ。大学にも行かせてもらった。感謝している。だけど、都会に逃げて、わかったこともあった。あの親の考えは、やっぱり偏っていたということだ。子どもたちには、もっと自由な価値観で育ててあげたい。そう思う。極端な話、よいとされる学校や会社に行くための力よりも、学校に行かなくたって、会社に勤めなくたって生き抜いていける力、親として、まず先にそれを養ってあげたいのだ。

 

この季節、庭の草を抜いていてしみじみ感じることがある。

小さな雑草だって、土の下には長い長い根をつけている。植物だって、目に見える部分を立派に、逞しくするには、まず目に見えない部分をしっかりしなくては育たない。何よりまず地面の下が肝心なのだ。土がフカフカだから、根が自由に、しっかり伸びることができる。いい土。子どもたちにはまず与えてあげたいのはそんな根っこがどこにでも展開できる環境。

 

我が家の習い事は、そんな「土」の視点で選んだ結果こうなった、と信じたい。何に育つかはわからないし、求めない。チューリップ畑に連れていって、あなたもあの隣のように立派な花を咲かせるようになりなさい、はしない。そのかわり、土づくりを重視する。見えにくくて地味で複雑だ。なるべく多様性があったほうがよい。分かりにくい。だから注目されにくい。結果も待つしかない。

 

でもそれでいい。何に育とうと、子どもたちには得意なことを伸ばして、強みにして、大人になったらそれが仕事になって、誰かに必要とされ、その人を幸せにしてくれるようになれば、親としてはうれしい。どんな仕事であれ、やりがいは必ずあるし、父ちゃんの経験上、有名無名問わず、「この人一流だな」と感じる人は、どんな仕事であれ、必ず自分の仕事のやりがいを信じ、誇りを持っている。誰かを傷つけたり、公序良俗に反してさえいなければよい。

 

やがて、子どもたちがそんな誇りっぽいものをみつけて、「これでいきたい」と意志が芽生えたときに、根がしっかりして、雨風にも耐える逞しさと、養分を吸収して成長できる素直さと、環境の変化に対応できるしなやかさと、周囲と調和できる優しさを持っていること。当面はそれが目標だ。

そのためにまずいい土。親はミミズなのだ。親の役割は地中に潜り、我が子のwillはどこにあるか、日頃から目を向けつぶさに感じ取り、尊重してやることだろう。大きくなって地上にでたとき、親の姿はそこにはないし、感謝もされにくい。でもそれでいいのだ。親に与えてもらった愛情は、子どもがもしもできたら、その子に返してくれ。ぼくもそれが親孝行だと信じている。

 

この手の話に正解などないし、家庭によって考え方も違う。鶏が先か卵が先かみたいなところもある。とはいえ、我が家の場合、しかも父ちゃんの場合は、そんなかんじ。やりたいことが見つかることは幸せなこと。でもそこまできたら、もう親ができることは限られているんかもしれない。応援するのみ。