おうち

鹿児島に家族旅行に行ってきた。2泊3日。慣れない場所と移動にペースをみだされたのか、1日目から次女は折に触れて「もうおうちに帰りたい」といっていた。空港からの帰りの車で「もうおうちにつくよ」と安心させようとしたら「もうホテルいかない。これからずっとおうちにいる」と外出しない宣言。寝てるときホテルのベッドから「ドスン」と落ちて泣いてたし。

子どもたちは三人とも、よくいえば活発、悪く言えば落ち着きがない。とにかくすぐ走ろうとする。普段の生活ではそのスペースはたくさんあるから自由にできるけど、開けた都会にいくととたんに窮屈になる。できるだけ止めたくはないけどどうしても人が多いところでは注意せざるをえない。空港内も駆け回っていた。空港は廊下が長いしたくさん歩かされるから、人がいないときはちょうどよい。長男にいたってはなぜかテンションがあがって側転までしていた。気がつけばみんな汗だくになっている。一日に身体を動かす時間がないとウズウズしてきて、ストレスが溜まるような体質。地方が向いている。

機内では妻をはさんで長女と次女が座ってお絵かきをしていた。次女が描いたクマの絵がしっかりした顔になっていて随分上達している。「プーさんみたいでしょ」と自慢気に見せてくる。

長女はサンタさんにもらったスワロフスキーのネックレスを旅の間していた。空港にスワロフスキーのお店があった。「入りたい」というので長女と次女と入ると、次女も欲しくなったようで「わたしもネックレスほしい。どれにしようかな〜」と選びはじめて焦る。店員さんの目線が気になる。これで「分かったよ」といって買うほど裕福な家ではない。「お姉ちゃんはサンタさんにもらったんだよ。ほしければ今度お願いすればいいよ」とかわす。石好きな長男もショーウィンドウに顔を近づけてみている。

長男と長女まではこの旅を覚えてくれるかな。でも次女の記憶には残らないのが普通だろう。記憶上は「ずっとおうちにいた」ことになるのかもしれない。でも、いつか、3人とも桜島をみたら「あ、ここ来たことある」になるとうれしい。

いろいろみている

一方で次女は将来なりたいのは「バスの運転手」だそうだ。「女の運転手だけどね」と補足。「かっこいいじゃん」と妻。

「バスの運転手より、あの前で立ってマイクもった人がいいな。かわいいもん」と長女。バスガイド、どこでみたんだろうと振り返ってみると、そうか保育園の親子遠足のときのバスか。1年以上前なのに、いろいろ見て覚えているんだな。

今日は長女と次女でamazonから届いた箱を持って「お届けものです」ごっこをしている。宅配業者役と家の人役をかわりばんこにやっている。

「ピンポーン」といわれたら家の人は洗面所のドアを開けてリビングに出てくる。

「ここに名前と住所を書いてください」

「じゃ、これお荷物です」

「ありがとうございました」

のやりとり。

住所は書かなくてもいいよ、のツッコミはしないでおく。宅配業者には紙を一枚渡している。控の紙もみて覚えているのだろう。

しばらくしたら留守で荷物を置いて控だけを持って帰るバージョンもやり始めた。この時は家の人の役は隠れたままで出てこない。

箱の中身を気にするのかなとおもったけど、そのくだりには入らなくて、延々とお届けの段を繰り返している。

普段、実際に宅配がきたときも、玄関まで一緒に必ずついてこようとする。そのときみている一挙手一投足を焼き付けているのかとおもうと背筋が伸びる。

将来の夢

長女と二人で近くのショッピングモールに立ち寄る。アイスを食べたいというからサーティーワンを買ってあげるのだ。その前にペットショップに連れていって、ガラスのむこうの子犬や子猫をみる。だいたい寝ている。「かわい〜」とはしゃいでいる。

みているとどんどん欲しくなってしまうので、「行こっか」といってもまだ名残惜しそう。「アイスいくよ」と釣ってガラスから引き剥がして手をつないでサーティーワンに移動。

道中、「パパ、あたし、大きくなったら何になりたいとおもう?」と長女。

「なぁに?」と訊いたら「巫女さん」とのこたえ。

前はケーキ屋さんか靴屋だったし、むしろお姫様をご所望かとおもったので意外だ。

理由を聞いたら「七五三のときに可愛かったから」。たしかに先日の次女のお参りのときにシゲシゲと見てた。「君の名は」を観た後もいってたな。

長女がかしこまった顔でシャンシャン回っているのはすぐに想像できるし、似合う気がする。どうやったらなる機会に出会えるんだろう。コネかな。「高校生になったら、アルバイトっていってちょっとだけ働けるかもね」と適当な返事をしておく。

アイスはイチゴがいいと言っていたけど、お店のショーケースをみてチョコがいいに変わった。店員さんがスプーンの先にちょこっと載せて試食を二つ出してくれる。それがチョコとイチゴの両方はいったやつで、「これにする」と決まる。会話を聞いていたのかな。

夜寝る時に「またワンちゃん見に行こうね」と誘われる。ちょっとした寄り道が楽しい思い出になってくれたようでうれしい。

みんなでスーパー

週末にスーパーマーケットに家族5人でいくことがある。これまではコントロールできない動きをしたり、抱っこをするので両手が塞がったりで、子ども同伴は買い物の効率が落ちるので、なるべく避けてきた。こういう作業はピャピャっと短時間で済ましたい。

最近はそうでもなくなってきて、次女が大きくなって分別がつくようになって「ここは公園ではない」くらいは分かってきて、走り回ったりもしなくなった。3人の子どもとも、むしろ欲しいものを物色するようになった。

それぞれの「これ買って」が出て来る。例えば次女はこないだはプッチンプリン3個入りを両手に抱えてもってくる。「これ、食べたい」と一歩も譲らない。長男もそれをみて応援する。彼も好きだ。

そのくらいで喜んだ顔をみれるのであれば、買ってあげたくなるのが親ごころ。「いいよ」というとものすごく嬉しそうにレジまで抱えていく。レジでも店員さんに一瞬渡して、「ピッ」としてもらったらまた大事そうに抱える。長男と長女にはまんじゅうを1個ずつ買ってあげた。

普段オモチャは買えないけど、スーパーでほしいものを1つくらいは買ってあげられるし、安いものだ。家に帰るのを楽しみにしている姿も微笑ましい。

ただこの話には後日譚があって、プッチンプリン、長男が皿にまさにプッチンして逆さまに出して食べたのを見た次女はそれを真似したかったのだろう、お盆にそのままプッチンしてしまい妻から怒られていた。

さらにクレジットカードから引き落としができませんの催促ハガキが届き、明細をチェックしたら月に5万円もそのスーパーで払っていることが判明して眼が飛び出る。野菜や海産物の高騰の煽りか。「そのくらい買ってやる」が実はズシンときてたりもする。でもスーパーだけはおねだりが通用して、次は何を買ってもらおうと楽しみにスーパーにいくという日常は、大きくなって里帰りしたとき、懐かしく思い出す光景の一つになるだろう。故郷の思い出づくりだと思ってなるべくやってあげたい。

二人でババ抜き

長女が最近トランプを誘ってくる。今日は夕食の準備をする前にババ抜き、寝る前に神経衰弱。ババ抜きを二人でやって何が面白いか疑問の方も多いと思うが、長女と二人でやると父はこれが面白いのである。当然ジョーカーはどちらにあるか分かる。例えばぼくが持っていたとき、扇状に持ったカードの中で1枚をオトリのようにピュッと立てる。それがジョーカーの場合もあるし、そうでない場合もある。その駆け引きに正面からむかってくる、カード越しの長女の真剣な表情が面白いのである。引っかかったときは悔しそうな顔をし、うまく交わしたときはニヤッとする。すごくストレートな反応なので、みていて清々しい。その立てた1枚をとるかどうかの決断は割と早く、潔くヒュっと抜くあたり正確が出ている。

一方彼女がジョーカーをもっているときも最近はぼくを真似て同じ1枚を立てて釣るようになった。ぼくが引っかかるとニヤっと嬉しそうに笑う。

勝負がかかった彼女が2枚を手にし、うち一枚がジョーカーのとき、「勝負だ!」と右手をあげて2枚を十分シャッフルする。ぼくが1枚を抜こうとすると、抜いてほしくない1枚のときは指にグッとちからを入れて抜けないようにする。だからぼくがそれを取らないで、もう1枚の方、つまりジョーカーをとると嬉しそうにする。その顔がみたいので、ぼくはジョーカーを取って、負けるまで繰り返す。

寝る前の神経衰弱はわりと真剣勝負。昨日は2戦やってぼくが2回とも辛勝したけど、どんどん強くなっていて、今日はぼくが洗濯物を傍らでたたみながらやっていたら完敗した。とても満足そうだった。

今日、長女が公文の宿題をやっていて、こういう問題があったそうだ。

「あなたがもし願いが一つ叶うとしたら、何をお願いしますか」

最初は「死なないように」という何ともポジティブなのかネガティブなのか分からないものを書いて、妻が「死なないから大丈夫、他には?」と聞いたらうーんと考え込んで、書いたのは「毎日が楽しく過ごせますように」。

すばらしい。妻も「ハワイに行きたいとかじゃないんだね」と感心している。

その願いは叶えてあげなくてはいけない。

何を仕事にするか

子どもたちへ。パパはきみたちが将来どんな仕事につくか、楽しみにしています。

もしも迷ったら、いいアドバイスをしてくれている本に出会いましたので、よかったら読んでみてください。パパがとっても尊敬する建築家の香山壽夫先生の本『プロフェッショナルとは何か』です。建築家の視点だけど、どんな仕事にも通じる話だと思うし、パパもたくさんのいろんな仕事をしてきて、世の中にはいろんな誘惑とか価値観があるけど、見失ってはいけない、大事なものは何かをきちんと書いてくださっています。

一部を引用します。

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・いつも充実し、夢中で、あっという間に時は過ぎて行きます。今日も、明日も、その先も、楽しいに違いない。そういう風に生きているのが、「プロ」なのです。

・「プロフェッショナル」とは、収入を得る手段、という意味なのでしょうか。本来の意味は、実は全く違うのです。(中略)医者、法律家、建築家、この三つが、社会においても代表的な大きな集団をなす、プロフェッショナルとみなされていたからです。そしてまたこのプロフェッショなるは、社会からも大きな敬意を払われ、それ故にまた、強い社会的意識を持ち、厳しい自己規律をもって働く人々の集団とみなされていたものです。すなわち、お金を稼ぎ、高い収入のために働くということは、むしろ反対で、自分の利益のためにではなく、社会全体のために働く、むしろ自分の知識や技能を人々への奉仕のために用いる人々とみなされていたのです。

・「プロフェッショナル(professional)」とは、言葉本来の意味で、”profess"した人、すなわち「告白」あるいは「宣言」した人、という意味です。(中略)社会に奉仕することができる自分の専門の知識や技能が、何であるかをはっきりさせた人、すなわち専門の学者、技術者等々を指すようになりました。

・自負とは、人の前に出しゃばり、威張ってみせることではありません。むしろその反対で、人が誰も見ていないところでも、自分は自分の持っている特別な力を、正しく用いるという自覚、そしてそのことを自分を超えた存在に誓い、約束をしていることでもあるのです。

・迷い、悩みは、人間が、自分の出来る全てではなく、その一つを選ぶようになった時からです。

・どちらもやってみたいのです。いや、むしろやるべきなのです。そういう風に、人は本来つくられているのです。いろいろやれることを、やってみることを最大限やってみることが、若者の特権だと私は思います。可能性を悩むのではなく、可能性を最大限楽しむ、それが若さということです。

・いろいろなことをやり、その中で苦しみ、闘い、努力するなかから、たとえおさえつけられても、おさえつけられても、最後に伸びてくるものがあれば、それは、本当の才能と呼ぶべきものでしょう。

・私が、進学の学科を決める時、世界は、造船ブームに湧いている時で、造船学科志望者は殺到し、競争率は最高でした。しかし、卒業の時にはブームは去っており、就職にはまことに少なくなっていたのです。このような、短期的な経済事情に対応する進学傾向の推移は、その後も、学生達の判断を左右しています。愚かなことです。

・正しく選んでいる人には、一つの共通性があると思います。それは、どんなに悩み、様々な意見を聞いて迷うにしても、最終的に、自分の内で、自分に話かけている、静かな、内なる声に耳を傾けて、それによって、最後の決断をしていることです。

・才能があるかないか、と考え悩むことは、よした方がいいと、私は思います。それよりも、その仕事をやることが好きか、ひとつの仕事をやり遂げるためには、必ず何かの苦しみが伴うはずですが、その苦しみ自体も面白いと受け止められるか、そのことを自分に問いかけてみることが大切だ、と思います。

・結局、一言で言えば、始めにもどって、仕事が好きかどうか、ということに帰着します。毎日の仕事、その仕事をやること、続けること自体が楽しいかどうか、それが全てだということです。

・仕事の面白さは、その結果ではなく、その過程、毎日の営みの内にあることを、よく知って下さい。仕事の結果として、名声や地位や富が得られる人もあるでしょう。得られない人もあるでしょう。しかし、富を目的にして面白くない仕事を選んだ人の人生は、たとえ巨万の富を得ても淋しく悲しいものに違いない。その反対に、毎日が働きの内に充実している人は、たとえ無名のうちに終わったとしても、幸せに輝いていると私は思います。

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パパには、ここで紡がれている言葉の数々がズシンと胸にささります。香山先生の経験なさったものに比べたら微々たるものでしかないけど、パパも社会人になり、仕事をするようになって以来、これまで苦しんだり、迷ったことがたくさんあったけど、そのときに、ここで述べられている、仕事の「根本」に立ち返っていれば、判断を迷わなかっただろうなぁと「しみじみ」感じます。

きみたちはまだ働いたことがないから、「しみじみ」感じることはできないでしょう。「よくわからないけど、そんなものなのか」と思うだけかもしれない。それでも十分です。それとも、「当たり前じゃん」と思うかもしれない。それも結構。でも、実際に長く働いてると、その「当たり前」が分からなくなってくるものなんだ。「当たり前」のことを、変わらずにずっと持ち続けることは、実はすごい修養と努力がいることなのです。不思議でしょ。

「自分で判断」すること。そして、「苦しいことがあったって、それも含めて『面白い』と夢中になれて」、お金や地位に惑わされず「自分を社会の役に立てるよう決意すること」。それらを大事にして、何を仕事にするかを楽しみながら、悩んでくれたらうれしいです。仕事は、人生においてとてもたくさんの時間を占めるものです。パパは、きみたちに「生き生きと」働いてほしい。そう願っています。

親目線

アメリカ映画を2本みた。「セッション」と「大統領執事の涙」。どちらも息子に対する父の愛が大きなテーマのように感じた。いやむしろ、父親になったから、この目線で楽しむようになったのだろう。セッションは昨春プノンペンに息子と二人旅をしたときの機内の中でみたのでなおさらである。ラ・ラ・ランドもそのときみて、ブルーレイを買った。この監督の映画は何度も観たくなる魅力があって好きだ。そしてアメリカって、すごい国だなとつくづく。