自然との関係

2回、保育園の園庭整備のお手伝いにいった。朝弱いぼくが5時半に起きて、6時に園庭に立つ。日頃の生活ではありえないことだ。仕事でも断りたい。でも、この保育園のためならできる。次女が卒園したらこれもなくなる、なおさらだ。

どちらも雨あがりで足元は泥ぬかるんでいた。スニーカーに泥がべっとり。長靴でくるべきだったと後悔する。蚊も足首を狙ってくる。長い靴下を履いてくるべきだった。マスクでメガネは曇る。コンタクトにするべきだった。

1回目は伸びた芝生や雑草を芝刈り機で刈り取る。2回目は新しい畑をつくるために、雑草防止に土に貼っていたビニールを剥がしたり、耕運機で土を撹拌する作業。どちらもはかどらない。

1回目の芝刈り機はしばらくすると刈られた芝が大量に刃の部分にたまり、刃の回転が止まる。適宜手でそれを掻き出してやる作業。餅つきの水を刺す仕草に似ている。完全に機械任せの自動化ではない。半分人手、半分機械の塩梅。そういうものには「コツ」がいる。円盤状に回転する刃の草へのひっかかり方などから、芝刈り機の地面への這わせ方、手元にある刃の回転させるためのレバーやタイヤを前進させるレバーなどを操作するタイミングなど、「コツ」はやっていくうちにどんどん上手くなる。それが楽しい。

2回目はビニールを剥ぎ取るのは簡単だったものの、ついでに隣のそれまで抜かれた雑草の捨場の大量の草を別の場所に移動させる作業もした。ときにそこを住処としていた無数の虫や小さな生き物とご対面することになる。そのあとの耕運機を入れる撹拌作業は刃に長いツタが絡みつき、これまた刃が止まるので、それをほどいて剥がすのもまた骨が折れた。ぼくは耕運機を動かす役割ではなかったので、こっちには「コツ」の世界はなく、ただただ手を動かすだけであった。やった分だけ、ちゃんと見返りがあって、スッキリする。機械を使うときに比べ進みは遅いが、確実に成果は少しずつでもあがる。それが手作業のいいところだ。

そういう地道でまさに泥まみれの作業をしていると「自然はいいよね」なんてのん気なことは言えなくなる。自然は人間にはお構いなしに、それぞれの生態系をつくって自由に繁殖するのだ。それを機械を使って少しだけ人間が介入し、人間にとって都合のいい環境に作り変えて、恵みを得る。それは常に手間暇がかかる、継続的な営みがあってはじめて可能なことなんだと実感する。「ありのままの自然」は人間にとって都合のいいものではないのだ。登山だって、ちゃんと道を作ってくれているから素人は楽しめる。

今月の新建築住宅特集で千葉先生が「炙り出される自然」という題で書いていた文。

「どんな道具を手にするかで炙り出される自然の様相も異なるし、新しい道具は、まだ見ぬ自然の新たな側面に気づきをもたらすこともある。建築の役割は、この道具に通じるところがあるとこれまで考えてきたが、建築的な行為を介してこの土地の魅力を発見的に浮かび上がらせることこそ自然と親和的な建築あるという認識は、この計画でより強まった」

保育園でのこれらの作業をしていた分、とても共感した。この素敵な建築を家族で見に行かせてもらえたのは本当にありがたい。

家に届いたこの雑誌を子どもたちも妻もしげしげと眺め、あの鮮烈な記憶を蘇らせていた。こんな大きな別荘に住む家族がいるなんて。長女は少しだけ一緒に遊んだ住人の女の子の名前をちゃんと覚えていて写真を見て「その子の家」と呼んでいた。車での瀬戸内までのロングドライブ。海のきれいな風景とともに、家族にとっていい思い出になった。

息子も千葉先生の文を読んで「なるほど」と建築家の考えること、建築の可能性を感じたようだ。これも、実際に体験しているからこそ。写真からだけではわからない。

 

あの敷地に、建築がなかくてただ立ったとき、あるいはどこの敷地でも関係なような普通の家があるときと比べて体験がどう異なるかを問いかけ、想像させてみる。部屋から部屋へ移動するとき、テラスに出て外に行くことになる。「そのとき、潮の匂いとか感じるもんね」。鏡面の窓や池、レースのカーテンも、自然をいろんなかたちで室内に映し込む道具となっていることも「たしかに」と納得していた。

 

保育園の作業を通じて、手をかけることで、自然が恵みを与えてくれる存在になり、近づく。そのことに人間はちゃんと文字どおり「手応え」を感じ、やりがいとなって快感を覚えるようにできている。作業はたいへんだしつらくとも、ちゃんとその分だけ実りがある。だから、自然を信頼し、感謝の気持ちを芽生えさせる。昔から人類がし続けてきたこと。人間だけの世界での利益のとりあいのための作業に比べたら精神的にすごく健康的な気がする。

 

運動会では次女も含めた子どもたちが芝生の上を駆け回っていた。がんばって刈ったパパは目を細めたのである。