お世辞でもうれしい

昨日は気の置けない親友家族が遊びにきてくれて楽しかった。

親友の1歳のご子息を息子が甲斐甲斐しく可愛がるのをみて、親友夫妻が息子のことを「いいやつに真っ直ぐ育っている」と褒めてくれる。親としてはその言葉が一番うれしいのである。親がめいっぱい愛情を注いで情操を育ててあげることが大事だと思ってこの10年間、がんばってきたから。普段はだらしがないとかいろいろ親が欲張って怒ってばっかりなんだけど、そういってもらえたら、とってもホッとする。

この田舎でどう育てていくか、という話題にもなる。いつか都会に出たとして、羽目をはずしちゃいすぎないのってどうしたらいいのかとか、どんなヒトを好きになるか、親はどこまで関わるべきなのか、など。

教育の話にもなる。ぼくが子どもの時代にもいたけど、典型的な田舎の教育パパママは健在、というか過剰になってきていて、幼少のときからガリ勉させてブランドとエスカレーター欲しさいわゆるいい学校の附属小学校や幼稚園へのお受験も加熱気味らしい。結果、子どもを医者にしたいとかいい大学に通わせたいとか、偏った価値観の親の子ばかりが集まった小学校や幼稚園は息苦しくて人気がなくなり、定員割れをしているという。ゆゆしき事態。人様のご家庭の方針をとやかくいうつもりはないけど、母校の中学校の魅力にも関わる話だから、その状況には危機感を覚えて黙っていられない。その道をゆく親子のご苦労もさぞかしと想像するけど、都会に住んでお受験戦争にいそしむほうが得るもの多いとおもうんだけどな。

本人が好きでやってるならいいけど、小さい頃の従順さや素直さをいいことに、子どもが勉強を押し付けているのだとしたら、かわいそうだ。ぼくが当時半ば強制的に通わされることになった中学受験のための進学塾も、先生が宿題をしてこない生徒を参考書で殴っているのが日常茶飯事だった。まさに受験戦争のためのコンバット軍。自然とぼくもその訓練になれ、自分のこととして受験勉強に勤しむことになるのだけど、いまおもうと、あのアプローチはやっぱり異常だとおもう。いつか息切れする。

オトナの目に見える表面の学力ばかり気にされるのは子どもにとっては迷惑だし、親も含めて他人から押し付けられた勉強なんて、やがて自我が出てきたらやってらんね、になっちゃう。

いわゆる「人としての厚み」、みたいなものを子どもたちには持ってほしい。成績以上にそのあたりが成長する環境に入れてあげたい。

もともと田舎で育てる以上、それがしやすいはずなのだ。オトナが計画してお膳立てし得ない環境で、いろんなものにふれて夢中になれるものをみつけて好奇心を育んで、ヒトの魅力はひとつのものさしで測れないという当たり前のことに気づかせて、お金はなくとも時間をかけて子どもに素朴に愛情を注いであげることが大事だし、できるはずだ。

大きくなってもそのような環境で培われた感情の豊かさや深い洞察、発想の面白さといった個性は魅力になるし、自分の意思で努力ができるように育つはずだ。田舎が多様な生き方のモノサシを失って画一的になったら、都会への人材工場にしかならなくて、長い目でみたら田舎の魅力が奪われることになると思うんだけどな。一昔前はただでさえ偏っている進学校とよばれるところでさえ、生徒の個々のキャラや特性を受け入れる寛容さはあったし、自由で多様なことが魅力だった。今は親も先生も表面上のわかりやすい数字に翻弄されて、余裕が持ちにくいのかな。

そんな田舎の良さを信じてUターンしている身としては、やっぱり息子へのそんなお言葉はお世辞だとしても実にうれしく、誇らしいのである。学力は必要だと本人が思えば、あとからなんとでもなる、と思うけど、情操はじめ、エモーショナルなところはそうはいかないから。我が子たちには楽しく人生を謳歌してほしい。そのためには、まず情に厚くなって、友だちと信頼を築けるようになれ。昔のように、人生の線路はもはや単純ではない。だから手堅い人生を目指して守りに入る、というのもわからなくもない。それでも、人生はそんなに窮屈じゃないとおもうのだな。自分の意思次第でなんとでもなるというポジティブな希望を持って生き生きしてほしい。

だから一にも二にも、とにかく明日からも我が子たちに愛情を惜しまず注ごうと思うのである。親は保護者であって監督ではないし、さいわい、ぼくにはそれしかできない。