ドロップの缶

食卓の次女の席にはずっとドロップの缶がおいてあって、座れば手にしている。もう中に飴は入っていないけど、お気に入りのようだ。

この四角い小さなドロップの缶、つくづく素晴らしいデザインだなと思う。まず大きさ。子どもの手の大きさにちょうどいいサイズ。大きすぎず、小さすぎず。掴む厚みも実にほどよい。四角いけどどの角が丸いから傷つくこともない。「ここを持て」と書いてないし、取手もないにもかかわらず、この缶の持ち方は多分自然と一通りしかないようになっている。子どもの手に吸い付いていくかんじ。

次にスチールという素材。机においたとき、中の飴が揺れて当たるときの音がいい。動かすと反応がある。

そして、丸いひとつ分の飴の穴。中は見えない。どの味の飴が出てくるかは出すまでわからない。くじ引きのようなゲーム性がある。だから楽しい。指を中にいれて、欲しいものを取り出すこともできない。

このドロップの缶を、「欲しい味がすぐに取り出せないから不便だ」という声は聞かないし、何十年もこのデザインは生き残っている。そこ声に反応して、これがアクリルで透明で、一面全部が蓋でパカっと外せて好きな味を取り出せるようなデザインになったとしたら、子どもはたちまち興味をなくすだろう。飴を入れている器の価値だけでなく、そこの遊戯性があるし、たとえ空になったとしても、中に何かを入れたくなったり覗いてみたくなる。その合目的的で利便性を追求した効率性に呼応しえない部分こそがデザインの豊かさなのだとおもう。

でも、残念ながら最近はこういうデザインをもったものと出会う機会が少ないように感じるのは気のせいだろうか。求められる機能にダイレクトに対応していて、わかりやすく説明可能なものでないと生存しづらいのかもしれない。ぼくも気づく視点を忘れているのもある。

この気付きを与えてくれるのもやっぱり我が子の振る舞いであって、これだから子育ては面白いのである。隠れたグッドデザイン賞

ちなみに、西部劇に出てくる馬にとって銃を背負ってハットを被る男が飲んでいる同じような形状のウィスキーボトル、あれも好きだし、いつか手にしてみたい憧れの一品。イノシシ狩りに行くときとかに。