読書メモ〜『きょうのできごと』

きょうのできごと』(柴崎友香河出文庫/2000)

 

小説の何がすごいかって。その中での世界の移動は、どんな乗り物よりも速くできるし、視点が空飛ぶ鳥のように大きくなったり、虫のように小さくなったりも自在できるし、さらには主体となる人も自由に飛び移ることができることなんだな。しかも、文が切り替わる、ただそれだけでできてしまう。実に手軽に。作者が凄ければ、その変化がより滑らかに、頭の中にスーッと入ってくる。時代がどれだけ進もうと、現実だって、映画だってそんな展開をされたら小説のエキサイティングさにはかなわない。

柴崎さんのこの小説には、特別なことは何もでてこなかった。でもとんでもなく面白い。「こちらが、何気ない現実世界でございます」と案内されながら、ふわふわと浮遊する不思議なアトラクションに乗ったみたいな感覚。会話文もさることながら、地の文が普通ではない。一見どこにでもある、現実では退屈とさえ思っている場面が、すこぶる鮮やかで、生き生きしている。トンネルの中を車で移動する夜だったり、鴨川の河原だったり、大学生の一人暮らしの家だったり。舞台は決して特殊でないのに、その手にかかると魔法のように魅力的にみえる。すごいなぁ。そして最後は京都で暮らしてみたくなる自分がいる。

 

印象的だった場面。

「明日って、いつからはじまるの」というのをテーマに会話をしている。十二時に変わるって知らなかったとその章の主人公はいう。そんなバカな、とだれもがおもう。でも、「じゃ、明日はなんで決まってると思ってたん?」と問いかけられてからこたえた主人公の次の言葉で意識がかわる。

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「わからんけど。でもその日によって違うとおもっててん。ほら、春って四月一日からって決まってるわけじゃないやん。そういうかんじ。」

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なるほど。さらにたたみかける。

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「でも、わたし思うけど、やっぱり十二時で明日とは思われへんわ。そういうふうに決めとかないと困るからそうなんやろうけど。だって、いまだって夜中の三時やけど明日じゃないやん、今日は今日や。」

「そうやなあ」

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一瞬で、たった1ページで、ぼくの「今日の終わり」に対する意識は覆ってしまった。

まだまだある。たとえばこれ。

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「あんなあ、酔うてるときって、卵の中におるみたいな気がせえへん?せえへん?」

「卵ですか」

かわちくんはきれいな形の眉頭のところにしわを寄せて、けいとに聞き返した。冷静な言葉の調子から考えて、かわちくんは酔っていないみたいだった。どうやらけいとの勢いに後退してだんだんと移動し、部屋の隅まで来てとうとう逃げられなくなっているらしい。だけど、けいとはそんなかわちくんの様子も全然気にしないで、楽しそうにしゃべっていた。

「そう。卵の中。でも、卵っていうても鳥の卵じゃないねんで。あんな固い殻じゃないねん。殻のない卵」

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なんか、妙にわかる。さらに、またもやたたみかけられる。

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「ええやろ。べつに。ほんまにそう思うんやから。卵やの、卵。柔らかい、水みたいなのに包まれている感じがせえへん?声とか水の中でしゃべってるみたいにこもって聞こえるし、感覚とかも鈍くなるやん。触っても、あんまり感じへんくって。きっと卵の中におるって、こんな感じなんやろうなあって思うねん。鳥の卵じゃなくて、おたまじゃくしの卵とか、そういうのやで」

「おたまじゃくしの卵ですか」

かわちくんは素直に聞いて、考え込んでいる様子を見せた。けいとはかわちくんの反応を、期待を込めた目をきらきらさせて待っていた。

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酔ったとき、もうおたまじゃくしの卵の中にいるとしか思えなくなっている。

そして、現実世界を見るレンズを調整する筋肉が壊れて、すこし筋肉痛を起こしている。その分だけ、視力がよくなっている感じがする。世界は捉え方次第でいくらでも新鮮に見えるのだな。

女の子がつきあっている彼氏に「わたしに振られたらどうする?」と訊く場面とか、そんな他愛もない場面もある。テレビドラマだったらチャンネルを変えたくなるような場面。ドラマだと扇動的で、どちらかの感情に入らなきゃ楽しめない。それがめんどいから。だけど、柴崎さんの文章にはその押し付けがましさがない。瑞々しいのである。その人物に入り込まなくてもいいという、気楽で透明なかんじがする。だから読んじゃうし、この天の邪鬼のおっさんが最後にキュンとなってしまっている。揺さぶられながら、シームレスに流れていく心地よさ。

 

これ以上小説を引用するのは野暮な気もするので、最後にあった保坂和志さんの解説から。とても勉強になる。

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「だって、まんまじゃん」とか、「全然普通なんじゃないの?」と思った方もいるだろう。しかし、これが全然ふつうではない。(中略)

このとても機敏な動きの連続は、一見日常そのままのようでいて、本当のところ現実の心や知覚の動きよりもはるかに活発に構成されている。この書き方ができる人は、ほんのひとにぎりの優れた小説家しかいない。

(中略)

小説も映画もテレビのドラマも、ただ筋を語ればいいというものではない。映画やドラマならカメラが何を写すか、小説なら何が書かれているか、というその要素によって、作品独自の運動が生まれて、それが本当の意味での面白さになる。もっといえば、それが作品自体の”何か”を語りだす。逆にこの運動がなくて、同じ対象や同じ気分にとどまる作品は、ただ感傷的になることで読者の満足感を演出することしか知らない。

(中略)

未来はもうかつて信じられていたみたいな”特別な”ものではない。それを私たちはよく知っている。だから、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を境にして、フィクションの時間はもう未来に向かって真っ直ぐ進まなくなってしまった。それはフィクションの構造にも、ストーリーやテーマの展開にも、両方にもあてはまる。未来には希望も絶望もないけれど、今はある見たり聞いたり感じたりすることが、今このときに現に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことができるのではないか。もしそれが未来に向かったとしても、過去やいま横にあることと等価なものとしての未来だろう。

作り手として世界に何かひとつのことを投げ込むだけでも大変なことで、ジャームッシュ本人は目覚ましい展開がないまま最近ではニール・ヤングのツアーを撮ったりしているが、ジャームッシュ以降の可能性は、確実に、柴崎友香に受け継がれている。

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