そりゃ知りたくなるよね

子どもたちからされて、困る質問がある。

「トトロって、どこにいるの?」みたいな質問。

トトロに限らず、プーさん、アナ雪、スティッチ。

長女と次女、肩を寄せ合って繰り返し、毎日保育園から帰ってきて何かしらみてる。

子どもって、同じ話を何回みても飽きない。好奇心が何回転もしてる。飽きるのはオトナのはじまり、なんだろうな。そして同じ話を何回もし始めるようになったら、老人のはじまり。話が何回も入ってきて、やがて何回も出て行く、人間はよくできている。作用と反作用。世界はそうやって均衡を保っておる。

 

プーさんはどこ?のときも「百エーカーの森にいるよ」と答えると、「んじゃ、百エーカーの森はどこにあるの?」と切り替えされて二の句がつげなかった。

「パパ〜、わたしネコバスに乗ってみた〜い。」と今夜も長女が。それを聞いて同じ発言を真似ていう次女。

要は、会いに行きたいのだね。

ディズニーランドや三鷹の森に行けばいい、とはなんかいえない。あれはリアルではあれ、ソノモノではない。

 

息子の場合は相変わらずドラゴンボールで「おれ、孫悟空に会いたい。一緒に修行したり、戦いたい」と本気でいっている。

「トトロも、プーも、アナも、悟空も、『心のなか』にいるんだよ」となんとも歯切れのわるいことでお茶を濁している。反応薄い。そこで、"in my mind"と付け足すと、「イママイ!?」と返ってくる。「そう、イママイ」「なにそれ。ふーん。」

 

不思議と、イママイはどこにあるの?とは今のところ言わない。たぶん、それ以上追求してもむだだという語感を、この音は醸し出しているのだろう。言葉のもつポテンシャル。

 

父ちゃんはだれに会いたいかな、と考えてみる。実際には会えないともうわかっているからか、すぐに思いつかないとわかり、すこし哀しい。おれのイママイは、空っぽなのか。いいな、子どもって。