ねがい

保育園に送ると、大きな笹の木に沢山の短冊がかけてあった。

「そういえば七夕だね。」とぼく。

次女の短冊をまだみていない。

「ここにあるよ。はしご登ってみてごらん」と次女。

ぼくの背丈のやや上にぶら下がっていて、それをめくると「あしがはやくなりますように」と書いてある。

足が速くなりたい。こんなにいっぱい時間を過ごしているけど、彼女の口から聞いたことがない。保育園でおにごっこやかけっこをしたり、お兄ちゃんやお姉ちゃんと競争したりして、感じているのだろう。

「速くなれるよ。ぜったい」と励まして、教室の入口で見送る。もう荷物を全部セットするまで「待ってて」とは言わない。

一番みたいもの

寝る前。お風呂に入れてドライヤーで乾かしたメルをぼくが胸に抱いていると、周りに子どもたちが集まり、メルをなでる。3つの顔がぼくの周りでニコニコしながらメルを可愛がる。

次女が「パパ、一番みたいもの、なあに」と聞くから、少し考えて「子どもたちの笑った顔」と答えたら、次女も長女も「そういうと思った」と返ってきた。

「ねぇ、なんで、おじいちゃんおばあちゃんになったら、腰曲がるん?」(長女)

ファミレスで。

「曲がった方が、楽なんじゃないの。」とぼくが返すと、長女と次女テーブルの周りでやり始める。腰を曲げてみたときと、まっすぐなときを比較する。

「まっすぐな方が、楽。」

二人の意見が一致。

「それはまだ、あなたたち若いからじゃないかな」

つまり質問に対してまだ納得できてない。筋肉と背骨の関係なのかな、その知識は持ち合わせてない。

ぼくもやってみたけど、腰曲げたほうがやや楽であった。

食べ方

はじめてのスイカ。ふんぱつして1個まるごと買った。2000円也。ものすごく高いが、その分子どもたちはめったにないことなので大喜び。それだけで元を取ったといってよい。食べきれないくらいだから、我慢を強いる必要もない。その喜びを噛み締められる程度に、たまにこういうのはあるといい。

さて風呂上がりに楽しみにしていた長女と次女。ひと切れ目の一口目を一緒のタイミング食べようときめて、同時に頬張る。

「一口目は、おいしいなぁ」と次女。たしかに、子どものときぼくもそう思った。

一人3切れずつ配給されている。その食べ方をみて、同じ姉妹だけど随分食べ方が違うことに気がついた。

長女ばぼくに似ている。ガブッと食べて、ペッと種を出す。ふつうだ。一方の次女は出した種はきちんと皿の上の一箇所に集めながら食べている。そして、前世はキリギリスかと思うくらい、赤い部分が全くなくなるまで食べ尽くす。すべて白い。長女をみたら、ちゃんと歯型に赤い部分を残して次のものを食べている。少しほっとする。

この白しかない食べ方は、ぼくのおばあちゃんと同じだ。次女と曾祖母ちゃんを重ねてみる。でも、曾祖母ちゃんは「もったいないから」という戦時中を生き延びたから故の真っ白スイカだった。長女は、たぶん「その方がきれいだから」が優先している気もする。だからちがう。でも、はっきりとした物言いとか、物事の理解の仕方とかなんか似ている気もしてきた。そのあたり大雑把で快活な長女は、どちらかというと母に重なる。どちらも、ぼくが小さい頃から毎日一緒にくらし、同じくらい一緒に時間を過ごし、おのおのから大きな影響を受けた。それが二人の娘にそれぞれ受け継がれているかとおもうと興味深い。

スイミー音読

長女が大きな声で、教科書の『スイミー』を音読している。宿題のようだ。音読ライブの声優さんかというくらい、一字一句に感情を込め、ときに振り付けさえもついている。『スイミー』は小さなころに読んでぼくが最も印象に残っている大好きな絵本の一つだ。1回読むだけで、ストーリーが全部頭に残るからすごい。次女も長女の音読につられて、すっかり覚えてしまった。

感情を込めて、声優さんのなりきって没頭している姿をぼくが眺めていると、その視線に時々気づく。そしたら一気に我に変えるようで、破顔の照れ笑い。そのあと、また戻って続く。

十字ダンス

前、後ろ、右、左。ファミコン十字キーのコマンドのような指示。それをランダムに並べ、大きな声で唱えながら、身体をその方向に動かす。そんなダンスを長女が考案した。紙に順番が書いてある。次女に「練習ね」といいながら振り付ける。次女は漢字が読めないし、身体もうまくついていけないから「できない」とスネ気味で、結局長女が一人、自分のシナリオにそってこの十字ダンスをやってみている。自由だ。

まけた

次女発熱により、保育園を休んでの看病。少し元気になったので、マンカラカラハやブロックスをやると、普通に負けた。うれしそうである。「こうしたらこう」とブツブツいいながら考えているし、ぼくの立場だったらどうするまで考えてくれる余裕もある。頼もしい。