習字

長女がいよいよ習字を習いたいというので、さすがになにかひとつ、やめないと、となる。経済的にも、時間的にも。はじめは公文の国語と妻の発案だが、長女はしたいらしいので、それよりサッカーだろうと提案。サッカーも楽しんではいるが、しばらくして「サッカーやめる」と意を決したようにいう。サッカーも、コーチ優しくて、なんの不満もないのだけど、続けていけばこの先、その分別れもつらくなるのを長男のときに経験した。だからぼくの中の未練も打ち切る。彼女のなかでもスッキリしたようだ。

スポーツでは、長女はトランポリンの方が楽しいそうだ。昨夜「トランポリン選手に、気がついたらなってた」という夢をみたという。

 

となりで次女が「二月になったらバレエやるといってたぞ!」とちゃっかり覚えていた。妻と顔を見合わせる。やらせたいのは、やまやまなのだけど。家計が。

「今月赤字なのよ」と長女。のび太のママの真似かな。

息子と将棋

息子を将棋の大会につれていくのはもうかれこれ5、6年になる。何を隠そう、一度も勝ったことがない。記念受験ならぬ記念出場が続いている。小5になっても状況かわらず、そそくさと負けて、プロ棋士に対戦してもらえる「指導対局」に回る。ほかをみると低学年ばかりで、ひとり身長が抜けている。

先生の棋士藤井聡太さんの師匠の杉下八段であった。弱小の息子にも、丁寧に「もっといい手がある」とじっくり付き合ってくれて、最後、息子が詰めるところまで相手をしてくれる。他の子たちは先に終わって、息子が一人になっても、じっくり語りかけるように教えてくれる。運営スタッフは昼食に連れていきたいのだろう、周りでソワソワ待機している。

これまでの指導対局棋士の場合、優しくても、ただ淡々と指して負かされて、最後に一言だけ添える、というのが通例だった。ちょっと「業務感」がある。杉本先生の場合は違った。途中でも「いまのよりもっとやらなきゃいけないことがある」と、息子の指した手を戻して教えてくれる丁寧さがあった。「先生」ってかんじなのだ。息子も真剣に聞いていた。

藤井聡太さんは天才的な才能があったことは間違いないにせよ、さらにこんな真摯な方が師匠だったら、伸びるだろうなと実感できた。日頃の息子への接し方を反省し、教育とはこうあるべきだとつくづく。自分で考えさせて、深めていくのにつきあうのだ。

 

それにしても、息子は勝つわけでもないのに、なぜ「行きたい」と行き続けることができるのだろう。負けず嫌いのぼくにはよくわからない。もちろん、わるいことではない。負けた瞬間は悔しそうな顔をするけれど、すぐに立ち直り、家でやることもしない。二週間に一回、テニスの前に公民館にいって指すというのもずっと続けている。二年前は行くだけは行って、皆勤賞だったくらいだ。でもその手応えはいまいちわからない。妻によると「いろんなやつとできるから」みたないのが理由だそうだ。

 

「百折不撓」一昨年、息子がイトコからもらった木村一基王位の色紙にあった言葉。

「みなさん、将棋は二人でやって、一人は必ずまけるんです。」

負けることを後ろめたく思うな。それよりも、負けを重ねて、どうして負けたのかを考えることが大事ということをおっしゃっていたな。そういう意味だと、息子はいまいい経験をしているのかもしれない。なんで負けたかは考えてないので意味はないかもしれないが、不撓ではある。それだけもたいしたものだ。

 

この大会も残すところあと1回になった。

「中学生になったら、出られないの?」

「あるけど、出るのは中学生になったら、将棋部とか、ガッツリやってる強い人だけや」

「出ちゃだめなん?」

「だめじゃないけどさ」

よくいえば楽観的。わるくいえばハングリーでない。生活の中心に本があって、その他は好奇心はあるからなんでも面白いと楽しむ。一方で「これだ」と絞ることはない。他の子はいろいろ絞れて来ている気がするので、これでいいのかどうかわからないが、小学校のこの自由で伸びやかな時間。いましかない。元気に学校へ行って、楽しかったと毎日を過ごしてくれればいい。中学校で何部にするべきか、だけは気になるものの。

路線バス

今日は二月とは思えない、春のようなうららかな晴天の日であった。息子が将棋大会にいくので、妻と家を先に出て行く。

追っかけて娘たちとぼくが出かけるのだけど、妻から「バスでいったら?」という提案。なるほど。普段は自家用車で街中までいくから、娘たちは路線バスに乗ったことがない。この天気だし、ナイスアイデアだ。

娘たちも楽しみなようで、「バス何時?間に合うかな」と家からソワソワしている。バス停まで歩いて15分。バスの時刻の25分前に家を出る。

おんぶしたり、スキップしたり。ぼくの影を踏みながら歩くというルールを決めて2人でひっついてついてきたり。クネクネ歩くことにすると、影が動くから、キャッキャ喜ぶ。

 

バス停に着くとバスまであと10分。

退屈だといいはじめるから長女はそこらへんを一周走らせる。それで2分つぶせた。

次女には、バス停にある、もうすぐ着くことをしらせるランプを説明。二つ前のバス停につくと、ランプが点滅して教えてくれる。

まだ時間はあるから5分はランプがつかないだろうに、その説明からずっとそのランプを「まだかな」と凝視している。その角度がちょうど朝日が差す方角で、まぶしそうだから、太陽と彼女の顔の間に立って影をつくってやる。

 

長女も隣に座って、やはり暇だというから「目を閉じてごらん」と提案。

「目を閉じるとね、目を開いてたときに気づかなかったこと、気づくよ」

「なんか、風の音が聞こえてきた」と次女。

 

よく言われてることだけど、普段、視覚に頼りすぎている。視覚はもちろん大切だけど、認識する世界が目の見える範囲にとどまってしまうきらいがある。ときどき、目を閉じると、どうだろう。自分が広大な宇宙の中に浮いている気になってくる。

 

そうこうしてるうちに、バスが来た。一番前の、一人座席に長女、通路をはさんで二人がけに次女とぼく。始発で他に客はいない。

新鮮な体験なんだろう、二人とも窓の外の風景をよく見てる。長女は「ひさしぶり」らしい。次女は初めてでしょ、と指摘すると、次女は保育園の遠足のときバスに乗ったから初めてではないと主張。

「おりるとき、このボタンを押すんだよ」と長女。それから次女はそのボタンをいつ押すのかに囚われて、バス停のアナウンスに耳をそばたて、毎回「もう降りる?」と聞いてくる。あと20個くらい先といっても、「次降りる?」と聞いてくる。せっかちなのかな。

長女は大人しいが、ときどき一人なのが心許なくなってくるのだろう、通路をはさんでときどき手を出してくる。一瞬だけ、手を繋いでやる。

 

次が降りるバス停になる。表示がかわると同時に、次女にボタンを押させる。

長女には、小児運賃を渡して、降りるときにどこにコインを投げ入れるか説明する。次女が「わたしもやりたい」というが、彼女の分はフリーである。説明するとほっぺたふくらませながら納得する。

 

バス停について、無事に長女も支払い、運転手さんに「ありがと」を言って下車。たまにはバスもいい。新しい刺激がたくさんあったのだろう、二人とも楽しそうであった。

歩道を手を繋いで、対局中の長男の大会会場にむかう。

読書めも〜『暇と退屈の倫理学』

<暇と退屈の倫理学 國分功一郎/2011/朝日出版社

・定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。
 退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。

・では、ここから退屈について考えるとどうなるか?人間は環世界を生きているが、その環世界をかなり自由に移動する。このことは、人間が相当に不安定な環世界しか持ち得ないことを意味する。人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界にひたっていることができない。おそらくここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。人間は一つの環世界にとどまっていられないのだ。

・人間にとって、生き延び、そして成長していくこととは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ、自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。


・人は習慣を創造し、環世界を獲得していく。そうすることで周囲をシグナルの体系へと変換する。なぜそうするのかと言えば、ものを考えないですむようにするためである。四六時中新しいものに出会って考えては生きていけない。
 ならば逆に、人がものを考えざるを得ないのは、そうして作り上げてきた環世界に変化が起こったときであろう。つまり、環世界に何か新しい要素が「不法侵入」してきて、多かれ少なかれ習慣の変更を迫られる、そうしたときであろう。

 

・贅沢は浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件であった。
 現代社会ではその浪費が妨げられている。人々は浪費家ではなくて、消費者になることを強いられている。物を受け取るのではなくて、終わることのない観念消費のゲームを続けている。
 浪費は物を過剰に受け取ることだが、物の受け取りには限界があるから、それはどこかでストップする。それに現れる状態が満足である。
 それに対して、消費は物ではなくて観念を対象としているから、いつまでも終わらない。終わらないし満足も得られないから、満足をもとめてさらに消費が継続され、次第に過激化する。満足したいのに、満足をもとめて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。
 これこそが現代社会の消費社会によって引き起こされる退屈の姿であり、本書ではこれを疎外と呼んだ。
 いかにしてこの状態を脱したらよいかだろうか?消費行動においては人は物を受け取らない。だから消費が延々と続く。ならば、物を受け取れるようになるしかない。物を受け取ること、それこそが贅沢への道を開く。

・あの場でハイデッガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったから、に他ならない。そしてなぜ楽しめなかったかと言えば、答えは簡単であって、大変残念なことに、ハイデッガーがそれらを楽しむための訓練を受けていなかったからである。

・人間であるとは、おおむね退屈の第二形式を生きること、つまり、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合ったものを生きることであった。そして、何かをきっかけとしてそのなかの退屈がせり出してきたとき、人は退屈の第三形式=第一形式へと逃げ込むのだった。
 ならばこう言えよう。贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである、と。
(中略)
この退屈の第二形式という概念を使えば、消費社会についてもさらに別様の定義が可能である。つまり消費社会とは、退屈の第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会だと言うことができる。
 人間はおおむね気晴らしと退屈の混じり合いを生きている。だから退屈に落ち込まぬよう、気晴らしに向かうし、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目をつけ、気晴らしの向かう先にあったはずの物を記号や観念にこっそりとすり替えたのである。それに気がつかなかった私たちは、物を享受して満足を得られるはずだったのに「なんかおかしいなぁ」と思いつつも、いつの間にか、終わることのない消費のゲームプレーヤーにさせられてしまっていたのだ。浪費家になろうとしていたのに、消費者になってしまっていたのだ。
 人類は気晴らしという楽しみを想像する知恵をもっている。それから文化や文明と呼ばれる営みも現れた。だからその営みは退屈の第二形式と切り離せない。ところが消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している。

・楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。
 しかも、楽しむためには訓練が必要なのだった。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。
 これは少しも難しいことではない。
 食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何で出来ていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。映画が好きでいつも見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。これはいったいいつ誰が作った映画なのか、なぜこんなにすばらしいのかを考えるようになる。 

 

・世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるよになる。<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。

・楽しむことを知り、思考させられ、待ち構えることができるようになった人間のなかでは、この能力が、退屈とどう向き合って生きていくべきかという問いを離れ、別の方向への拡張されていくのではないかと言いたいのである。

・何かおかしいと感じさせるもの、こういうことがあってはいけないと感じさせるもの、そうしたものに人は時折出会う。自分の環世界ではあり得なかったそうした事実を前にして、人は一瞬立ち止まる。そして思考する。しかし、それを思考し続けることはとてもむずかしい。なぜなら、人は思考をすることを避けたいからである。
 けれど、<動物になること>をよく知る人なら、何かおかしいと感じさせるものを受け取り、それについて思考し続けることができるかもしれない。そして、そのおかしなことを変えていこうと思うことができるかもしれない。
 退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈さもそれなりにあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生であった。だが、世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちがたくさんいる。戦争、飢饉、貧困、災害−私たちの生を生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ちている。にもかかわらず、私たちはそれを思考しないように生きている。(ドゥルーズはこう言っている。「私たちは、自分の時代と恥ずべき妥協をし続けている。この恥辱の感情は、哲学の最も強力な動機のひとつである。」)

 退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。それは<暇と退屈の倫理学>の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。

 マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的条件にあずかることのできる社会を作らねばならない。そして、物を受け取り、楽しむのが贅沢であるのなら、暇の「王国」を作るための第一歩は、贅沢のなかからこそ始まるのだ。

スネ

「パパのスネって、固い?」(長女)

お風呂で。プニプニのスネでは人は立てない。

バスケから帰ってきてもまだ起きてて、一緒に入れた。手作りの表彰状を作ってくれていた。「サッカーいくときも、帰ってきてからも、『いってらっしゃい』と『おかえり』をいってもらえなくてさみしかったよ。でもだいすきよ」と書いてある。

たしかに、図書館に車を取りに戻って車を下ろすとき、道幅狭くて対向車もきて停車の余裕がなく「早く降りて」としかいえず、そのままぼくはご飯とバスケにいくからすれ違いで、「サッカーがんばってね」を言い忘れたと気になっていたのだ。バックミラーに映る長女の顔が少し曇っていた、気もして。

だから「やっぱりか」と予想どおりの指摘で、パパも気にしてたと、たくさん謝る。ちゃんとこうして伝えてくれるのはいいことだ。

表彰状の模様も手描きのキラキラ装飾を施していて、感じがでている。

次女の分も、書いてくれていた。「はやくかぜ、なおるといいね」。風邪は引いてないのだけど。

ハートの色

寝床で。長女は眠気の限界で先に布団に倒れ込んで寝つく。次女はまだ元気で、ぼくの背中を足で踏むマッサージをしてくれる。だいぶ重みが出てきた。

おならがしたくなったので、勢いよく発射させてもらうと、次女が笑って「茶色のハートがお姉ちゃんに向かって飛んでってるよ」と嬉しそうに反応。

「どこでやってたの?」

「なんとなく」

ポジティブかネガティブかわからない表現に恥ずかしくなる。一番近くにいる、自分には向かって飛ばないらしい。

親を超えた日

テニス、図書館の帰りに友人の工房の内覧会へ行き、そのあとやっと、16時ころに息子と食事。図書館で妻娘たちと待ち合わせて、一台車を駐めさせてもらったまま工房へ行き、その一台で家に帰ってから、車を放置してきたことに気づく。出戻り。それもあって腹ぺこであった。

すき家に入る。

牛丼のサイズを迷っていたが、父ちゃんが余ったら食べることを確認して大盛りを注文。ぼくはねぎ玉の中盛り。そのあとバスケがあるから。

息子、むしゃむしゃたいらげる。初めてである。ぼくよりも食べるのも。

「並盛だと、足りんかったかもな」

ちなみにぼくが先に食べ終わり、トイレに行ってもどると、辛そうに下をむき、手で口を覆ってモグモグしていた。

ぼくが席に着くと、やがて飲み込んで顔をあげる。心配になって声をかけると「つまりそうやった」とのこと。そこまで深刻ではないが、一人で俯いて迷惑かけないように、手で口を押さえ、我慢しているような姿が妙に愛らしく、ふだん叱ってばかりだけど、やはりこいつは大事な一人息子だなと、なんかしみじみする。別に吐いても父ちゃんが全部なんとかしてやるのに。一人でがんばってるようにみえた。

この話を家に帰ってきて妻にしたら、「あんたが目を離すとなんかおこるよね。ほら前も。プールで」と蒸し返される。

次女が生まれたとき、息子と長女を連れて3人だけでホテルに一泊二日旅行をしたとき。ホテルのプールで遊んでいると、当時まだ2歳の長女のおむつからウンチがはみ出てることを発見、大慌てでトイレにかけこんでいる隙に、息子は大きなイルカの浮き輪にまたがっていて、大丈夫かとおもったら、トイレの間にひっくり返ってプールに投げ出され、まだ泳いだこともなく、1人バシャバシャ溺れてもがいてなんとか壁に辿り着き、よじ登り、事なきを得ていたという事件。ホテルのプールだから監視員もいなくて、周りの大人も少なく気づいてくれずあれは本当に危なくてとても反省した。いまでも冷や汗がでる。

「目を離さないでね」と妻。

 

車で流れていた幼児向けの公文のCMをみて「かわいい」とつぶやく。

「おまえもこの頃、あったんだぞ」

この頃を思い返すと、一つの思い出が蘇る。

寝る前に、ぼくが「テイクオフ」と10からカウントダウンして、ゼロになると「発射」と彼の体を浮かせる「ひこうき」の遊びだ。

「テイクオフ、おぼえてるか?」

「あ、おぼえとる、おぼえとる。」

意外にもしっかりおぼえててくれて、先日それを今友人の小さな息子にしてあげたそうだ。

 

牛丼をほうばってる頼もしい姿をみながら、小さな子に優しいこいつは、いつか子どもをもてたら当たり前のように、ぼくがこいつにしたようにたっぷり時間を過ごし、いろいろ遊び、愛情を注いでくれるかな。

子どもが可愛くていかたなかったら、きっとしたくなるだろうな。ぼくの真似をしなくていい。でも、男が積極的に育児と家事をすることになんの違和感ももたず、奥さんと一緒に子どもと家庭を大事にしてくれたら、とても嬉しい。