朝のダンス

朝、長女が学校に行く前に「パパとギューしたい」といって近寄ってくる。今朝はぼくはやらなきゃいけないことがあって、PCにずっと向かっていたので相手ができなかったから、物足りなかったのだろう。喜んで。

抱きしめながら身体をスイングさせて「だいすきよ〜」と反復して歌う。彼女も一緒に歌う。それを近くでみていた息子に「おまえもするか?」と尋ねるが「いや、いい」と断られる。次女も誘うが「いい」と続けて断られる。

構わず長女と続ける。

しばらくして長女が一息ついたついでに、手を広げて息子に「くるか?」と誘ったら、いやいやだけど珍しくきた。いってみるもんだ。

ずっとゲラゲラ笑い続けて歌にはなってないが、歌にならない声は出していた。

「隣の女の子にやってみたら?」

「いやや。変態や」

次女もじっとこの様子をみているが、改めて誘ってもやっぱり断られる。

 

ひとしきり笑ったあと、息子と長女が妻の車にのって先に学校に出ていく。

「保育園、誰もいないうちに、早く行きたい」と次女からせがまれるが、ぼくのワークが終わっていないので「待って」とお願いするが、我慢できずすぐに「行きたい」と焦れる。

このタイミングかなと思って、抱きしみてさっきのダンスをやってみたら、今度はスムーズに一緒に歌った。別にそれ自体が嫌なわけではなく、あのときはみんながいて恥ずかしかっただけだったのか。

実に和やかな朝であった。

流行り

鬼滅の刃』というアニメが流行りはじめたそうだ。息子の友だちの話がそれで持ち切りだとか。息子はその話題についていけない。ただ一緒にいて、聞いているのだという。聞き取りだけで、なんとなくのあらすじを、ぼくの背中を寝床で踏みながら話してくれる。声色に力がある。彼の好奇心からいって、よほど見たいのだろう。

テレビも最新のゲームもない。息子はその手の流行についていけない。いじわるではなく、その方が彼や家族の時間の使い方として有意義だろうと思っているわけだけど、父ちゃんが小さい頃どうだったかを聞かれたら、そうではなかった。

「父ちゃんは、ファミコンもってたの?」

「持ってたよ」

「いいなぁ」

息子からしたら「フェアじゃない」と思うだろう。受けて入れているものの、親が思っている以上に我慢をしているのだとおもうと少し心が痛む。ニンテンドウスイッチは仲のいい近所の友だちはみんなもう持っている。友だちの家で集まったとき、彼だけ借りてやらせてもらっているのだろう。

 

友だちについていけないから、からかわれたりしないかも心配になる。

「大丈夫。おれが流行りについていけないの、みんなわかっているから。」

微笑みながらいう。同じように、そのあたりに疎い友人はもう輪に入らないらしい。でも息子の場合はその輪の中に居続けたい。友だちも寛容だ。

そのアニメだけでなく、歩いて友人二人と下校しているとき、その友人はタブレットでやるウィニングイレブンにはまっていて、ずっとその話で持ち切りだったそうだ。

「おれ、わからんなとおもいながら黙っている」

ぼくがウィニングイレブンは知っているというと驚く。

「やったことあるん?」

「ない。父ちゃんの友だちがよくやってた」

「いいなぁ」

またある日は、別の友人と帰っていて、その友人も流行りに疎いらしい。その時は何を話すか聞くと「おれたち、よくわからんよな」と分かり合っていたらしい。

流行りについていけないことを、恨んだ感じでもなく、悲壮感もない。仕方ないと受け入れながら、それぞれの友人とそれぞれ付き合って、楽しそうに、今日も学校にいっている。頼もしく救われる思いだ。

「アマゾンビデオに鬼滅の刃があるかな」といっていたので探してみると、トップにあった。でも、アニメではなく単行本で一気に読ませた方がよかろう。十何巻しかないから、彼なら4時間ほどで読むだろう。それを提案すると「面白かったら読むけど、そうじゃなかったら読まん。」と返ってきた。「キングダムは面白かったけど。」

 

そんなもろもろのことがあって、気になってたここ数日。ちゃんと説明したほうがいいとおもい、サッカー教室の帰りの車で、そのあたりの意図を語る。

父ちゃんは小さい頃、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられたから、家でだいたいゴロゴロしてて、ゲームやテレビ、漫画で時間を潰していたけど、スポーツはソフトボール以外やってない。それでよかったこともあるかもしれないけど、ずいぶん時間を無駄にしたな、とも思う。本当にやりたいことをやったのか。それがベストではないとおもったんだ。小さい頃やっておくべきことは、スポーツで思いっきり身体を動かすことだったり、自分がやりたい習い事だとおもう。そんな思いから、習い事しかり、おまえにはやりたいことをなるべくやらせてあげているとおもう。ゲームを買う余裕まではないけど。

例えばスポーツは、あとから取り返そうとおもっても、なかなかできない。運動神経をあとから養うのは大変だ。ゲームやらテレビの時間は大人になっても作りたければできる。子どものときの自由な時間をどう楽しむか、その塩梅は慎重に考えた方がいい。何より、ゲームやらテレビは、刺激が強すぎる。大人が子どもの時間、そしてお金を占有しようと必死で考えて作られたものだから、子どもは我慢しようとしても欲しくなるように作られている。その扇動力に太刀打ちできないし、支配的なんだ。だからちょっと距離をおいた方が、子どもたちにとっていい。そのとき好きだとか、欲しいと感じたことでも、一年たったら忘れるだろう、それは本当の気持ちではない。

もちろん、それらをゼロでなきゃいけないということもないから、今度漫画を読めば、時間的にも効率がいいし、原作を先に読んだ方が、アニメもより面白くなる。何より、本は、ほどよい。本はインパクト強くなくて、流行り廃りもあまりないから。受け手が主体的に判断できる。本に夢中になる生活は父ちゃんが小さい頃、できるようになりたかったけど、できなかったこと。それができているおまえはすごいとおもう。本好きは生涯お前の身を助けるぞ。スポーツと同様、本もあとから読もうとおもっても、習慣になってないと、なかなかできない。想像力がついていかないから。

そんな話をする。予想の範囲だったのだろう、「ふんふん」と聞いていたが、時々首をかしげた素振りをしていた。それがぼくの話の内容なのか、見ているテレビのクイズ番組の答えへのリアクションなのか。いつもこのサッカーの帰りにやっているクイズ番組も、うまく支配するよう作られている。でも、首をかしげたのはぼくに対して言いたいことがあったからだろう。

 

自分の好きなものを推薦するというテーマで近々、作文があるそうだ。そこで鬼滅の刃も友人たちが紹介するだろう。キングダムにするのかなと予想したが外れ、「シャーロック・ホームズ」とのこと。

 

ぼくは小さい頃、週刊少年ジャンプを楽しみにしていた。いよいよその年齢になったかとジャンプで読んだらと勧めてみるが、友人たちはアニメのほうらしくまだピンときていないようす。「途中からじゃ、ついていけない。最初から読みたい」とも。

 

下校の相手は日々フレキシブルに変わっている。一人のときもあるらしい。それはぼくのころと違う。ぼくの小学校は決まった仲間やグループが固定的だったから。今思うと実に田舎臭い。とはいえ、下校中にすれ違う友人のランドセルをこっそり開けてまわるのは楽しいらしく、それは約30年たっても、その悪戯は健在だそうだ。

 

今日はサッカー教室のゲームデーで、4点決めたとうれしそうだった。

いっしょ

ぼくが夕食を食べていると、先に終えた長女がぼくのところまできて背中から「パパとずっと一緒にいるの」と抱きつく。ついでに、以前、同じことを寝ている妻に対して横で言ったところ、「ママが『うるさーい』と言った」という報告。そのときは悲しくなったそうけど、いまは笑い話にできていた。

誘導じんもん

次女と二人でおふろ。身体を洗いながら、お姉ちゃん、お兄ちゃんのことを好きか聞くと「うん」と笑みをたたえながらうなづく。「なんで?」と尋ねると、お姉ちゃんは「いっしょにあそんでくれるから」。お兄ちゃんは「泣いてるとき、慰めてくれるから」。

追加で訊いたパパとママについても「うん」と返ってきたものの、「なんで?」に対しては「わからない」と首を傾げていた。

浴槽に彼女を抱えながら入る。顔がぼくの胸にあったから「心臓の音、聞こえる?」と促すと耳をあてる。「ドクドクいってる」。

次に彼女の胸に耳をあててみると、ドクンドクンという重く、素早い鼓動が耳をつく。当たり前だけど、ちゃんと生きてる。うれしかった。我が子の心臓音を聴くのは、息子か長女がまだお腹の中のとき、エコーであった気もするが、産まれてからは初めての気がする。

 

尾道弾丸旅行

恩師の住宅の内覧会があって、「新境地だから見においで」とお誘いいただいたので、遠路はるばる瀬戸内海の島まで、車を飛ばして家族を連れて行ってきた。1泊2日、1500km、16時間の弾丸旅行。穏やかな瀬戸内海に面して立つ、年下のとんでもないエリートの、大金持ちの家族の大豪邸の別荘であった。ポコポコと四角い箱が地上から生えて、ところどころくっついたような造形で、周辺の遠ろからも際立っている。月に数回、週末に来るだけでこの大きさ。お金のことは全く気にしなくてよいのだろう、なんの制約もなく「得たいものは得る」といいう自由さにあふれていて、質素倹約、制約だらけの我が家にしてみたら完全に非日常のライフスタイルである。子どもたちも感想として、「でかい」「大きい」という言葉がまっさきに口をつく。

世の中にはこんな経済的な成功者もいるのかと天を仰ぐ思いであった。妻とぼくにはもう可能性はないが、子どもたちはどう思ったか。欲しいと思えば、手中にできる可能性もなくはない。長女はうらやましくおもったみたいで「わたしもこういう家すみたい」といっていた。感化されやすいのかな。長男はそこまでではなさそうで、ひとしきりおうちの中を拝見したあと、海を覗き込み、貝殻をみつけたり、「釣りをしたい」いったり、最後は外が気になっていた。次女はそのお家のお嬢様とご一緒させてもらって、ずっと遊び回っていた。ちなみに、ぼくはこっちに帰ってきて、自分にとってほしいものというのはずいぶんシンプルになっているので、どうしても相対的な見方になる。もっとも、恩師の先生のお仕事ぶりを拝見できれば十分なのだから。

サラリーマンの中で、日本の0コンマ以下、ゼロがたくさん並ぶ、ほんの数%の上澄みの世界を垣間見る貴重な体験であった。そして、これまでもたびたびあったが、本当のエリートって、権威的ではなく、リラックスしてて、コミュニケーションも自然で、人を緊張させず、好印象でしかないお人柄で、それにも希望を感じるのである。

30代を最後のロングドライブは、来し方を振り返りつつ、これからの10年の生き方を考えさせられるものだった。教員になった大学時代の先輩とも夜な夜なサシで語り合えて、自分の大学時代を思い返しつつ、今の大学生のスマートさや、どう育成するべきかを議論できたのもいい思い出。午前3時に家族の待つ福山のホテルに戻ったものの、興奮してほとんど寝れなかった。

尾道の千寺展望台にも寄り道できた。天気もよく、心地よい風が吹き、海に浮かぶ島々が遠くまでみえた。「ここで一句」という投書箱があり、子どもたちも競って書いて投函していた。

なにはともあれ、無事に帰ってこれて何よりである。帰りの車で子どもたちは「アナと雪の女王」をみて、サービスエリアで食事をしたあと、寝た。長女と息子で、リズムしりとりがずいぶん盛り上がっていた。負けるとわかっていた次女は「やらない」と参戦しなかった。他にみた映画は「シュガーラッシュオンライン」、「名探偵コナン、ベイカー街の亡霊」、「ティンカーベル月の石」、「メリー・ポピンズ」。メリー・ポピンズは息子はパッケージからまったく興味を示さなかっにも関わらず、見始めたら終始ゲラゲラ笑っていた。「最近、なんでも素直でかわいい」と妻による息子の評。

家族での夕食は福山のジョイフルだった。尾道ラーメンは結局食べられず。

息子不在

今夜は息子がいない。明日の表現会のとき、彼は将棋にいく。送迎をおばあちゃんに頼んだため、おばあちゃん家に宿泊。テニスが休みで、時間が被っているために、いつも途中で切り上げていた将棋がフルでできる珍しい週。

息子がいないと家がスカスカで物足りない。静かに本を読んでるだけのときもあるが、あそこに座っていないとダメなのだ。大学なり、家を出て一人暮らしを始めたら喪失感、でかいんだろうな。やがて慣れるとはいえ。

明日は図書館に寄れない。予約して取り置きになってる本が、来週まで行かないと期限切れでキャンセルになってしまってはいやだというから、急遽今日取りに行ってあげた。

寝床もいつになく広い。