読書めも〜『イギリスの大学・ニッポンの大学』

山本義隆先生が、予備校の最後の講義の最後にくれた言葉。「大学では、本当の学問を思いっきりしてください。大学生は遊ぶからな。でも、大学ちゅうのは、学問をするところだ」と前を向いて、真剣な眼差しでおっしゃっていたことを思い出した。他の先生が「合格祈ってる、がんばれ」という中で、異色だった。先生自身、時代の流れに翻弄され、やりきれなかったからもあるのだろうかと推察した。とにかくこの言葉は突き刺さった。この一言を聞いただけでも、浪人してよかったと思った。今でも脳裏から離れない。イギリスはそれを、中世からずっとやっているという衝撃。

 

<『イギリスの大学・ニッポンの大学 カレッジ、チュートリアル、エリート教育』/刈谷剛彦中公新書クラレ/2012>

・その何世紀にもわたる学問と教育の営々としたいとなみが今日まで続いていて、その一角に自分も加わっている−大学で行われる学問や教育といったものが、大仰に言えば、これまでに蓄積された人類の知的遺産に新たなものを付け加えつつ、後世に伝えていく営為だとすれば、その大きな流れのほんの微小な一部に自分もいるーそういう『錯覚』にしばし浸ることができるのである

・学ぶことの中心には読むことがあり、しかも、読むべきものがだいたい決まっている。

・何世紀にもわたり生き残ってきたのは、石造りの古い建物だけではなく、その中で行われてきた学問と教育という営々としたいとなみであり、その蓄積と継続性の基本にあるのが、読むこと、さらには読むに値する書物を書き残すことなのである。

・ただ、学部生の場合には、カレッジに所属しつつ、専攻に応じてそれぞれのプログラム(学位取得のための複数の科目のまとまりで、それぞれの科目はそれぞれの学科が提供している)にも所属し、カレッジを中心に「チュートリアル」と呼ばれる個別指導を受けたり、学科が提供する講義に出席したりする。

・要するに、年がら年中、読んで書いて議論するという学習を最終試験が終わるまで繰り返すのである。

・その過程を通じて、読み取り方、考え方への評価や新しい視点の提示が行われるのである。知識の加工のプロセスとしては、ずっと丁寧で複雑である。学生の判断や思考を多く経由しつつ、しかもそれへのフィードバックがある。そうやって、知識の生産(批判的・創造的思考)につながる、知識の再生産(伝達と理解・受容)が行われるのである。

・「高等教育とは、批判的な思考をリベラルな教育を通じて発達させることである」

・「高等教育は、どのような科目を通じてであれ、個人のコミュニケーションと批判の能力(統合・分析・表現)を発展させることである」

・日本での面接のように、ばくぜんと「人物」を見るのでもない。そういう場面で発揮される、頭の回転のよさや論理的な思考力、柔軟な発想力、言語による表現力といったものを確かめるのである。

・重要なことは、こうした差異が隠された事実ではないということにある。だから先の敬遠効果も生じるのだが、それは多くの市民にとって、「教育された市民」育成の場を自分たちとは縁遠い世界としてその存在を知りつつも、社会全体としてはそれを許容しているということである。

・教育上の完全な平等が実現した暁に、どのような市民がそこでは育っているのだろうか。(中略)それでもあえて、先の疑問を挙げたのは、こうした思想の進化・深化もまた、高度な批判的思考の賜であり、このような議論をリードしてきた人びとの中には、第一部で見てきたようなリベラル教育を経験したり、自らそこでドンとして教えていたりする人びとが少なからず含まれていることに目を向けるためである。

・「○○力の育成」といった議論が、目標や理念の段階ではどれだけ熱っぽく語られても、それを実現するための具体的な方法や、そのための資源の配分という問題になると空洞化してしまう。日本の大学教育論が空回りしてしまう一因は、社会の分断や資源の限界という現実から目をそらしたところで、市民社会という理想像やその実現のための教育が語られるからではないだろうか。

・そういう教育が手間暇かかるものであり、資源投下なしには容易に実現できないことをリアルに論じるのであれば、いかに偏りをもった資源の配分が正当化できるかという論点を含めて、開かれた議論をしていかなければならない。それを避けたままでは、「顔の見えない大衆」教育社会は、「教育された市民」を十分に育成できないまま、民意に揺れる大衆社会にとどまってしまうだろう。しかも、社会階層による教育格差も温存したままに。

・いや、別の見方をすれば、受益者負担のように見えながらも、実際には学生個人の負担ではないことが、フェアネスの問題を後景に退けているのかもしれない。授業料を実際に負担しているのは、学生個人ではなく、親である。その意味で、大学教育は親から子どもへの一種の「贈与」であり、イギリスのように学生個人が授業料負担分を将来の自分の所得から返済する仕組みとは大きく異なっている。

・徹底した個人主義によらない受益者負担、という中途半端な仕組みが、親子間の贈与、相続としての大学教育を支えてきたのである。学生の学習意欲の問題もそのあたりにあるのかもしれない。自分の費用で大学教育を受けているわけではないのだから。

・そこに共通するのは、大学教育は公共財であり、それゆえ効率性の原理で論じるべきではないという判断である。そして、その公共財としての価値の中心に、教育や研究の成果がすぐには現れない人文学的な教育や自然科学的な教育−正解のない問題を考え尽くすとか、真理を追究するとか、人類の知的遺産を引き継ぐとか−が位置付けられ、称揚されるのである。しかも、この大学が伝統的に築きあげてきたチュートリアルの仕組みを維持することが重要だという。

・学生の側から見れば、自分が将来負担すべき自らへの投資ではなく、親への依存によって教育を受けているという意識につながる。大学で学ぶことへの意識の低さにもつながる「甘えの構造」は、こうした費用負担の仕組みと関係しているといってもよいのである。

・言葉の壁に守られながら、従来通りの就活・採用活動を続けている限り、グローバルに展開する人材養成・獲得競争に目が向かなくなるのは当然である。

・その構造が大きく変わるまで、少数の先端事例を除けば、じり貧になりつつも現状が続くのだろう。あるいは企業を含め日本社会全体が、全体としてみればマイナスを生み続けている、この不合理さから集合的に脱することができるのか。問われているのは、日本という社会なのである。

・日本社会にとって「大学とは何か」。その答えを端的に表現すれば、日本では、「教育の総仕上げ」を担うはずの大学に大きな期待がかけられてこなかった、といえるだろう。

・日本の社会にとっての大学は学習の場であったとしても、そこでの学習は、授業以外のこうしたさまざまな経験を通じて得られる「体験学習」であり、大学はそのための時間を与える場であれば十分だったのである。

・学校教育最後の段階で、幅広い「体験学習」の時間を与え、就職後には会社人間として職業に必要な技能・知識を身につける。そういった人的資本形成の日本的仕組みのもとで、大学の役割は規定されてきたのである。

・それではオックスフォードのような大学にとって「大学とは何か、何をするところか」。その問いに対し、私自身の4年間の経験から得られた解答は、大学は学問をするところである、に尽きる。(中略)まさに、知の再生産と生産のためのスキルが養成される「学問する」過程がチュートリアルである。

・構造的に規定される問題点の核心をはずしたまま、崇高な理念を語ることに違和感を覚えてしまうのは、中教審のような政策提案の場でも、利害関係者のさまざまな顔色を見ながら、折衷的なことしかいえないからだろう。

・資源の限界を知った上でそれを行うのであれあば、何かをスクラップしなければならない。そこに一歩を踏み出せるかどうか。全体を覆う後ろ向きの議論に惑わされることなく、特権とそれに見合う責任の一部を大学に与えることができるのかどうか。人類が直面する課題に応えることのできる、ワールドクラスの大学が日本から出現できるかどうかはその決断にかかっている。